網野善彦を継ぐ? 中沢新一が??赤坂憲雄が??

 2004年に講談社から出版された『網野善彦を継ぐ』は、中沢と赤坂の網野善彦追悼の文を土台にしておこなわれた対談である。赤坂は、「あとがき」で「もとより、網野善彦を継ぐ、といった物言いがまったく不遜なものであることは承知している。」と述べているので、少々期待した。期待は全くはずれた。中沢はともかく、赤坂は、吉本隆明との対談(『天皇制の基層』作品社 1990年/講談社学術文庫 2003年)では、明らかに吉本を動揺させていた。幇間糸井重里の猿回し芸にのせられていい気になっている吉本が、きちんとした教養のある者と対面して、狼狽し、(赤坂の話は)断じて承伏出来ないと、虚しくも身構えた(虚勢)。どうやら、「断じて承伏出来ない」と、狼狽を裏腹に断固とした口調で表した吉本の態度に、赤坂は退いてしまっていたようである。
 中沢と一緒になって、網野善彦の足を引っ張るような話を続ける赤坂は、吉本を狼狽させていた赤坂と同一人物とは、思い違いだったのかとさえ思った。
 この不遜といえるほどのことは何も書いていない出版物に、何かを言おうするのは、小路田泰直編『網野史学の越え方』で露見した問題と通ずる問題をみるからである。いずれにしても頓珍漢な連中で、気分は滅入るが、問題を少しは指摘しておきたい。

1 「無縁・公界・楽」について
 網野善彦は、平凡社『月刊百科』の連載エッセーをまとめた『無縁・公界・楽 :日本中世の自由と平和』(1978.平凡社選書)で、多くの読者を得ることになった歴史家である。中沢や赤坂は『蒙古襲来』(『日本の歴史』10 小学館 , 1977)を、網野善彦を知る手がかりにあげる。確かに、『蒙古襲来』には、高校生にも理解しうる筆遣いで、その後に話題になった網野善彦のモチーフが提出されている。
しかし、歴史研究者としての網野善彦の地位を確たるものとしたのは、東寺領若狭国太良庄を描いた『中世荘園の様相』(塙選書、1966.2.)だろう。
 「無縁」思想こそ、網野善彦だと思うのは誤解だ。網野は、水田耕作中心の歴史を書き換えた。非農業民に軸にした歴史家だと思うのも間違いだ。もし網野がそのような言い方をしていたら、網野が民衆の生活を判っていないということになる。
 すぐれた仕事なら当然のことであるが網野善彦の仕事もまた、民衆の生活やその時代を彷彿させるものがある。日本中世の世界を描いた古典的な書物といえば、石母田正『中世的世界の形成』が挙げられるが、それに匹敵しうるものといえば、まず網野『中世荘園の様相』だろう。人々の活動が実に立体的に浮かび上がってくる。これを「実証」と言うのだろう。中沢も赤坂も「実証」ということについて、全く理解していない。中沢は、網野に「だから秀才はだめなんだ。」と言われた意味がわかっていない。通俗教科書のような粗末な教条を祖述して理解した気になっているから、それは「実」がない、リアリティが無い、と言っただけなので、解釈が秀才らしくうまい、と言われたわけではない。通俗教科書の祖述ではだめだ、と言われてただけなのだ。
 網野が、『無縁・公界・楽』の問題をつかれて、改めて考証を試みる、この考証を試みること自体が貴重なので、それを理解できないで、「痛ましい」とか「痛々しい」などという赤坂や中沢の研究者としての資質こそ「痛ましい」ものがある。
 中沢は「実証主義歴史学は、文字の表面を読んでいくんですね。」(p.36)と言っているが、中央大学の講義や演習でも、そんなことを言っているのだろうか。このようなことを本気で思っている中沢は、まともな学術論文など一篇も書いたことがないのではないかと思う。
 一片の文書をみて、その文書の背後に潜む多くのことを思い、あるいは先祖の遺産として蔵にしまわれていた膨大な資料のなかで、その時代の人々の思いを読み取るのである。それは民俗学であれ、歴史学であれ、そう違うわけではないだろう。何気なく語られることが、もう今は存在しないことであったり、あるいは、そう昔のことでなかったり、その意味は、受ける方に相当の修練がなければ、とても判ることではないことである。柳田国男に多くの人が情報を届けたのには、理由があるのである。
 中沢は、「幕末に静岡のやくざたちが、天皇側、明治政府側につきました。清水の次郎長とかね。ところが、甲州側のやくざは佐幕派でした。幕府に最後まで忠誠だったんですね。黒駒の勝蔵親分なんかが中心になって、浪人ややくざどもを組織して(笑)。……」と、喋りは続く(p.91)。中沢の言い方の揚げ足をとると、明治政府が出来ていたら、それはもう幕末ではないのであるが、それはともかく、常識では、徳川家支配の駿河が、どうして尊皇派になるのかと思うだろう。また、静岡で、江戸を明け渡した徳川を受け入れるときの情況は大変だったことも考えないといけない。中沢は、次郎長が明治政府側についた、と簡単に言うが、次郎長は、官軍の召募をなんども断っている。その理由も考えないといけない。それに対して、黒駒の勝蔵は、尊皇倒幕派つまり赤報隊に加わることになる。勝蔵が処刑されたのは、旧幕時代の罪状で、甲府県によってである。明治4年のことであった。中沢は、処刑が甲府県によって行われたことから勝蔵は佐幕だったと誤解したのだろうか。本当は、そのような図式は簡単には描けないが、あえて中沢の間違いを整理した言い方ですれば、「尊皇倒幕の黒駒勝蔵と佐幕の清水次郎長」(高橋敏『清水次郎長―幕末維新と博徒の世界』岩波新書2010、第3章第3節)ということにもなる。中沢の話は、証拠のある話と正反対だとも言い得る。粗末な認識の「痛ましい」対談ではないか。そして、偽官軍に連座して自死した水野弥三郎や、明治4年になって幕府時代の罪状で甲府県に処刑された、つまり使い殺されたやくざも痛ましい。
網野が問題にする「秀才」というのは、このような身勝手な思い込みによる確信をいうのだろう。
 話がずれたが、水田が広がる太良庄を舞台にした、人々の活動を描いた『中世荘園の様相』と『無縁・公界・楽』の網野善彦はそう違ってはいない。『様相』の資料の多くは、東寺百合文書である。現実の農耕に携わらない、鋤や鍬をもたない荘官などの活躍が描き出されている。
 網野善彦は、見方をずらしたり、反転させて描いただけとも言える。問題なのは、「無縁」とか「公界」などで、一般的なものが言えたり、原理にする誤解である。先の小路田泰直たちの『越え方』にも、そんな勘違いがあったが、赤坂・中沢にも「無縁」を梃子に歴史・世界を解き明かそうみたいなところがある。これは、大きな間違いである。
 網野善彦自身が、民が、「ここは公界(くがい)だ」(だから身分差などない)とポジティブに使っている言葉が、近世社会では、なぜ「苦界(くがい)」に転嫁してしまうのだろう、という問題を、自らに課しているのを、『無縁・公界・楽』の読者なら見ている筈である。
 楽座令などは、同業者団体、いわば組合である「座」を解体するものである。解体されてどうなるか、信長などの戦国大名に隷属させられてしまうのである。「楽」は、まさに、民衆の結合の解体過程なのである。
 従って、いろんなつながりが切れてしまった人々は、権力によって隷従させられるか、あるいは、権力にすりよっていくかしか、生きていく道が選べなくなっていくのである。「座法度」を目して、中世日本と近世社会との連続を説く人さえいるのである。種々の拘束から解放されたかのように思われる「無縁」が、網野善彦自身語るように、権力の庇護の下に奔る情況なのである、その一瞬の状態であるとするならば、それは、危ういところであると言わねばならないが、そのことは、「無縁」「公界」「楽」などと呪文のように唱えて妄想を膨らませていては、誤解が深まるばかりである。どのような条件で、どのような展開があるかは、具体的にみていかないと仕方がないのである。そのような試みを「痛々しい」としか見ることができないものしか網野善彦は後継者としてもてなかったのなら、網野善彦は、それこそ「痛ましい」「痛々しい」としか言いようがない。

2 「欲望」という呪文
 網野史学は「欲望の歴史学」とか、ヘーゲルの哲学は「欲望の哲学」、とか、「欲望」が呪文のように出てきて、対談がはずんでいる(p.25)が、社会の原動力が欲望だと言っているのか、網野善彦が、日本史の通念を書き換えたいという意欲=欲望があったということなのか、単に網野が知的なことにどん欲な人であったということを、欲望の人だったと言っているだけなのか、さっぱり判らない。
 欲望は、人の行動の一つの動因である。しかし、逆にいえば、どうしてそのようなことを、わざわざ言うか。欲望こそ、歴史の原動力というのなら、これほど単純明快な、というか素朴な物史観はない。「生産力」思想だ。
 しかし、ヘーゲルの哲学は、「欲望の哲学」なのか?『法の哲学』に、市民社会は「欲望の体系」という言い方がある。欲望の哲学ではない。それは、決して肯定的な言い方ではない。国家というものの成立の前提というか根拠のための叙述にさえなっているのである。それは、なるほど「否定」ではある。中沢は、網野と、ヘーゲルの話をしているとき、一番しっくりきたと言う(p.25)。網野善彦はヘーゲリアンだったのか?いやいや、中沢が、網野やヘーゲルの一端も理解していないだけだろう。そんな偽ヘーゲルの線でマルクスをなぞるところをみても、中沢は、ヘーゲルマルクスの一端でも理解しているとは思えない。
 中沢は、網野が、抑圧から解放された欲望をとりあげたとするなら、それは網野の著者に限らず、まともな歴史書を読んではいないのだろう。人々は、もっと厳しいところで生きるのに必死なことが判る。いかにも「欲望」といった姿は、そんな懸命な人々のなかには出てこない。「山僧」「神人」が、中沢や赤坂たちには、どのようなかたちで資料に出てくるか思い出せるだろうか。
 網野が「秀才は、駄目」と言ったのは、そういう感覚のない者たちのことでもあったのだろう。

3 赤坂は稗を食ったか?
 赤坂は、「稗田」を話題にして、それから非農業民の話につなげている(p.99-100)。このつながりも変だ。稗は穀物であるし、農産物だ。どうして非農業民の話の枕になるのか。
 私は丹波(それも但馬に近い)の出自だが、近くに「稗田」という地名もある。赤坂は「稗」を食ったことがあるか。「粟」なら、それがまざったお菓子を食べたことがあるかも知れない。農村では、粟は小さいことの表現にも使われる。稗は、その粟よりも食べがいがない。そのようなものを食べて、肉体労働をしたことがあるか。
 網野善彦を話題とする者の話に、食物としての、米の生産と人々の生活の感覚が、全く無いのはどういうことか。民俗学というのは、人々の具体的な生活と密着してこそ意味があるのではないのか。
 逆に、赤坂は、自らに農作業の感覚がなかった自分を肯定的に言う。しかし、赤坂も中沢も、主にカロリー源として食していたのは米ではないのか。ひょっとして違ったのか。でも、まさか稗ではあるまい。輸入した小麦でもあるまい。日本で、山梨県の水田の割合は今でも低い。しかし、本格的なぶどうの栽培は、明治以降である。
 日本で旧石器を最初に発見した相沢忠洋の研究所の写真をみたとき、私には非常に懐かしい風景であった。それが桑の木に囲まれた建物であったからである。かつての丹波の谷間の集落と酷似していたからである。そういうところでは、養蚕もし、豆も収穫し、芋もつくり、稲作もするのである。
 山梨県ということで、一般化したり、反対に特別化するべきではない。
 赤坂は、東北をフィールドにしているという。東北の日本海側は、日本を代表する米作地帯だということくらいは知っているだろう。1993年は、明治以降最悪の不作の年であった。しかし、秋田や山形での生産は、それほど落ち込んではいない。かつて奥羽山脈を越えると冷害による飢饉はないと言われたらしい。移動が困難になった江戸時代は、太平洋側の冷害による問題はより深刻になったと思われる。つまり、「東北」として一般化はできないということは、東北で生活しているわけではない赤坂には判らないことなのだろうか。だとしたら、残念なことである。
 赤坂が「飢饉なんかで全滅しちゃうと、よそから連れてきて村を再編成するとか、そういうことが当たり前に行われているんですね。」(p.116)と平然というのには、返す言葉がない。村の人が、亡くなるのだろう。子供も。赤坂のは、村人を単に徴税対象とする役人の発想じゃないか。現実に生活していた人が、無くなってしまっても、よそから連れてきて、頭数(徴税単位)を合わせる、牛の頭数を合わせるように再編成するとは……、これでは、具体的な民衆を大切にする網野善彦など「継ぎ」ようがないではないか。
毎日食している(筈の)米のことを知らなかった自分のことを、赤坂はどう考えるか。つまり、稗しか食せないとは、悲惨な状態なのだ。柳田国男が、破局状態の戦時になって稗のことなど言い出したとしたら、それは理由のあることなのだ。網野は、「秀才は駄目だ」と上品に言ったのは、整理がうまい、ということではなく、「判っていない」ので駄目だ、と言ったのだ。本当の秀才なら判ってもよいのだ。網野は、「だから、お坊ちゃまはだめなんだ」と言いたかったのであろう。現実には、網野は、旧制高校(しかも七年制)へ進学したほどの「お坊ちゃま」だったのだろうが、網野善彦は自覚していたと思う。
 「東と西」をどのように分けるのかと思う。網野の「わたしは東の歴史家である」という宣言が、とても愉快だし共感できる、と赤坂は言う(p.100)。このような、意味の無い自己限定には、共感してはいけないし、「継」いでもいけない。そもそも丹後半島の「網野」は東か西か。赤坂はどっちだと思う?
 「東と西」をテーマにした網野の著書は読んではいないが、古代から、日本海は、重要な通路だったことは共通の認識の筈である。

4 芸能人は差別されているか?
 都立北園高校で、部落解放研究会の顧問をしていた網野善彦と違って、赤坂や中沢は、差別の実態を知らないのだろう。被差別部落は、織豊政権以降の政治的な情況が大きな理由になっている、ということでは、かなり議論が詰められてはきている。中世の職業や芸能が今もある差別の原因かのように言うのは明らかに間違いである。中沢と赤坂は、このように明らかに、現代の差別とは違うこと、間違った、根拠のない思い込みで、漠然と「差別」を言っているのである。差別されるべき言われのない差別で現実に苦しんでいる人たちには、頓珍漢な思い込みは不愉快だろうと思うのである。
 実際に、芸能人・職人に対する差別は、江戸時代に確立してくる賎民差別と異なるだろう。そのことの理解不十分の所以が、網野善彦にもあるのかも知れない。しかし、網野は、「苦界」の例のように、決して気づいていないことはなかった。
 1985年ごろ、京都でドイツ文化・社会史学会の設立準備大会が開かれた。招かれた講師の阿部謹也が、「差別される人というのは希人で、この世界と異界とを行き来できる特別の能力をもった人なのです。そのような特別の能力があるが故に差別をうけることになるのです。」などとおとぎばなしのような話をはじめた。私は、阿部に「差別を受けるというのは、特別の能力があるからであれば、差別されるということは、良いことの現れということになるが…」と聞いた。阿部が困っていたことまでは覚えているが、その後、阿部が具体的にどのように誤魔化したのかは、まじめに聞いていなかった。
 私の質問は、阿部謹也を招いた主催者を不愉快がらせていたことを、人づてに聞いた。しかし、差別の現実を知らない人の「戯言」は、現実の差別の下にいる人には不愉快なことだと思った。

5 天皇制の理解 
 最初に言及した赤坂と吉本隆明との対談で、吉本がなぜ狼狽したのかといえば、吉本が信じ込んでいた天皇制は、明治になって作られたもので、江戸時代にはなかったものだと赤坂に言われ、吉本は、自分の「共同幻想」が、本当に「幻想」だと言われて狼狽したのである。吉本は、自分で「(共同)幻想」などと言いながら、幻想という「実体」―矛盾した言い方だが―を信じ込んでいたようである。
 幻想には、いろんな条件がある。天皇制は、そのときの支配関係の結果である。農耕の儀礼などが付随しているが、それは見極めなければいけない。決して弥生時代に種のあるものが成長成熟したなどというものではない。縄文時代に行かないと根を浮かすことができないものではない。しかし、自分で根深い幻想だと信じ込んでいれば、信じているとおり、縄文時代までいくと良いが、それは幻想だから、縄文時代までいっても決して根を浮かすことなどできないだろう。
 日本書紀を、読んでみれば、他の豪族の存在はあっても、天皇家というか天皇氏の存在がないことに気が付く筈である。天皇家などなかったのである。天皇家領もない。しかし、「大王」は、単なる幻想ではない。軍事の指導者として「大王」として豪族たちに共立される箇所が日本書紀にはある。奈良時代天皇制とは異なるものである。鎌倉時代とは、全く異なる。
 赤坂は、「天皇制に覆われる前」みたいな言い方をしている(p.88)。「天皇制」という得たいの知れない覆いを「幻想」している。天皇制とは、そんな覆いだというのは、まさに「幻想」なのである。赤坂は、明治天皇の東北巡幸を千年前の記憶がなすものだと言う(p.90)が、これもまた、オカルト風発想である。だれしも戊辰戦争奥羽越列藩同盟のことを考えるだろう。
 網野善彦が「段階的発展」という考えに疑問をもったは、正当であっても、「野生」とか「未開」とか「いかんともなしがたい、えたいの知れない力」を仲立ちとして天皇とか差別といったものを、いかに超えていくことができるかというモチーフを考えていたとしたら(p.30赤坂)、それは、とんでもない間違いである。
 その意味で、吉本隆明の「アフリカ的段階」など、決定的な迷妄である。吉本は、自分自身で思索者としての自分を閉じたと言える。東洋の歴史がいかに古いかといえ、「アジア的生産様式」をアジア的「段階」と誤解し、さらには、アフリカ的段階などを「幻視」するとは目も当てられなかった。「段階」などと言うこともさることながら、「アフリカ」の実体を全く知らないが故の偏見を固めたような言い方でもあったからである。赤坂が、「あなたがとりこまれた天皇制は、近代のものですよ」と言ったように、アフリカ的段階などありませんよ、と誰も言ってやれないばかりか、それは、「無縁」と同義だなどと言っていては、中沢も赤坂も、研究するものとしては「尽きた」のか、と思われかねないことになってしまう。
 そして、階段のような「段階」ではなく、〈原始)や〈未開〉の復活、これは、笠松なども「地おこし」とか言っていたが、このようなオカルト風の言説も願い下げである。