荒岱介(日向翔)が亡くなった。


 5月3日の夜、荒岱介(日向翔)が亡くなったということを5月5日の毎日新聞朝刊で知った。前立腺癌とあった。荒が、病気で、しかも深刻であることは聞いていた。その時は驚いた。それで新聞の訃報欄で荒の名を見たときは、ついにその時を迎えたか、という思いだった。
 新聞の訃報蘭などの荒の肩書きは、共産同戦旗派元議長とか代表とかある。実際、荒が日本の新左翼の一つ顔だった時代があるようだが、荒の名前で印象的なのは、'69年の『戦旗』に、獄中からの「社学同全国委員会委員長荒岱介」の文が掲載されていたころだ。また『理論戦線』6,7,8号のころが日向翔の絶頂期だったのかも知れない。
 '68年の荒は、角がついたようなヘルメットを被った大男だったという印象で、抜群のアジテーターというわけでは決してなく、絶叫型でもない、一風変わった、面白い喋りをする目立つ男だと聞いていた。1967年10/8羽田以降の、60年後半の再建ブントが一番華やかだったころだ。


 噂や名前だけでなく、現実の荒をみたのは、もう1970年になっていた。米田隆介も出獄して、関東では、荒を中心としたブント系(その後、戦旗派と称される)が勢いづいていた。その年の夏、千葉で全国合宿があった。
 その合宿で、荒は、一挙に関西ブントからの脱却をはかった。関西ブントの戦闘的なイメージを保持しながら、あるいは、戦闘的なイメージに依存しながら、知的なエリート層の集団であった60年安保ブントの再現を観念していたようであった。それは荒が書いている自伝にもある。そこにもう荒の認識の錯誤が見て取れる。つまり、安保ブントの幻影を追って、安保ブント崩壊後の革共同加盟グループのようなことをしているのである。
 そんなことは全く知らなかった我々(「我々」とは、私の認識不足で、「私」だけかもしれない)は、全く思いもしないことに遭遇したわけである。関西ブントからの脱却などとは、それこそ、荒たちとの最後の「共闘」となった70年の10・21防衛庁攻撃闘争で旭凡太郎が、非としていた「産湯と一緒に赤子まで流す」ことだと思ったからである。
 いきなり(と我々には思えた)、荒が田原芳批判をはじめた。関西ブントは、ブントというより、むしろ構革左派だ、田原芳に至っては、プロスタだ、全面的に清算しないといけない。今、ブントが問われているのは、現代過渡期世界の「行為的現在」における「過程的推進構造」なのだ、と言った。合宿会場で茫然とする我々をはじめとする参加者のところへ、荒の青年将校ともいえる手下どもが、戦略的に配置され、その「行為的現在における過程的推進構造」の教義説明をはじめた。
 荒が「田原はダメだ、田原はダメだ。」と言い、手下共も「田原はダメだ、田原はダメだ。」と唱和していた。唱和していた奴ら全部、結果ダメだった。

  '69年秋の政治的惨状のなか、我々が、なんとか政治的党派の体裁を取り繕うことができたのは、その年の末までに出た田原芳パンフレットによるものであった。翌70年2月の赤軍派との衝突の後、粉雪の降るころ、手にすることができた、「正規の包囲軍を構築せよ―赤軍派の悲劇とその教訓―」では、やっと1年に及ぶ論争の結着がついた、というより、問題がはっきりした。我々が、安保ブントの国会構内突入が、そして、97年の羽田のゲバ棒が、つまり、当時、他では考えられなかったことが、運動の飛躍的なステップとなったことを知っているので、簡単に赤軍派を否定できなかったのである。しかし、田原芳は、赤軍派は、ボグダーノフ主義、ブハーリン主義、トロツキー主義への転落し、社会主義を組織する政党の任務を放棄している、全人民の武装の獲得という困難な任務からも召還していると批判した。そして、赤軍派無政府主義こそが、官僚主義の根拠であるとして、この無政府主義官僚主義は、相互補完だとした(尤も、旭凡太郎は、無政府主義官僚主義などは常識だとした。しかし、旭らの神奈川県委員会は、やはり田原が批判するところの、党の「軍」への解消の道に進んでいった。さらに、旭は、田原芳の共産主義論の一角をなす「無償労働の組織化」をねじ曲げ、党内に召還主義を持ち込んだと難癖をつけたが、これも取り上げられたわけではない。)。
  荒は、69年4月15日に逮捕され、警視庁の留置所で27日に革共同の本多延嘉に邂逅し、その時にも、それ以前にもアドバイスを受けたことをあげ、「ああブントにもこういう指導者がいてくれたらなあと思ったものだ。」と書いている。
  荒は、66-67年の明大闘争のとき、67年1月小川町の中大学館で行われた政治局会議に塩見孝也にプレッシャー部隊としてかり出されたときのことを述べている。
  そのとき、学生である荒たちは、政治局会議を傍聴したり、野次ったりしながら、「こんなのは党ではない」と思ったと書いている。69年の7月6日に塩見たちは、全く同じようなことをして、大袈裟にいえば、全人民に負債を負わせたわけだ。
  荒は、「私が第二次ブントに絶望したのはこの時の政治局会議の在り方や、討論の内容をかい間みたのが最初である。学生であったからこそ私は強い党運営に憧れ、レーニン主義党という家父長的な権力にも憧れていくことになった。第二次ブント政治局は、私の親父のように情無い存在に見えたのだ。」と述べる。

 合宿会場での、荒たちの宗教的ともとれるシュプレッヒコールに、情けないことに、我々は、ほとんど反撃できなかった。かろうじて、坂井与直さんが反撃というか抵抗を試みていた程度にすぎない。そのころブントといえば、実質的三谷氏の指導であり、荒も三谷氏の若大将のようでもあったが、荒の攻撃の主眼は、訳あって闘争現場では全くみかけない「田原」だった。(これは田原さんに直接聞いたことだが、69年のはじめのころか、田原さんに佐藤浩一=飛鳥浩次郎さんのような立場、つまり「名誉ブント」になることの依頼があったということなのである。)
 関西の指導者たちが、有効な反撃ができなかったのは、荒たちの攻撃が、理論的に精密だったからではない。斬新だったからでもない。荒の『破天荒伝』は、ブント神奈川県委員会の軸を為す村田の素朴な言辞と肉体主義には全く批判的であるが、このときの荒たちは、その裏返しに過ぎなかった。神津陽は、荒を偲ぶ文で「武闘派革マル主義」と言っているが、これは、神津の専売特許ではなく、すでに1970年のころから言われていたことである。
 荒は、米田隆介の外は、全く名前を聴いたことがない幹部を勢揃いさせていた。彼らは,いかにも闘争経験の無さを窺わせる、へたくそなアジテーションを代わる代わる行っていた。荒は、そういう連中に、それぞれ任務を与え,束ねていたようであった。
 荒は、神津陽たちの叛旗派とは、敵対的かのようでありながら、神津のきどった表現を茶化すように引用して、坂井さんの表現を茶化していた。今にして思えば、荒は、叛旗派と敵対しながら、「文学的」な神津に随分と親近感をもっていたようである。同時に、革共同の本多延嘉には、随分と私淑していたようである。まるで、実の父親に会っきたかのようである。
 合宿のあとの、全国政治集会にさきだち、その「過程的推進構造」の一環として組織された反帝戦線(AIF)全国委員会のミーティングがあった。荒は「議長は、(米田)隆介がやるんだけど、問題は副議長だね。これ(AIF)は、全学連のような戦闘組織なんだよね。だから、議長、副議長は、すぐ逮捕されたりして、とんでしまうんだよ。だから、(副議長は)2人とか3人とか、みみっちいことなんかしないでさ、どばっと10人ほど、つくっちゃおうよ。」と言った。笑ってしまったが、なるほどと思った。荒はすごい、面白いやつだと思った。
 なんだか、面白く載せられて、関西の連中にそのことを言うと、「そうすると、おまえも副議長だな。」と言われて、「俺も、その監獄入り役副議長か」と我に返った。実際には、その「どばっと副議長」のことは、その場限りとなった。
 そんな荒(とその一派)は、急速にというより、一挙にブント内主流派の様相をつくっていった。荒たちの現場指揮は、安田講堂攻防戦で社学同行動隊長だった米田隆介だった。米田は、誰にも愛される、しかし、抜群の戦闘指揮能力をもった男だった。また、ヘーゲルの著作に精通していて、ヘーゲル引用にかけては、荒の信頼あついが、現場で喋ることはとてもおぼつかないなんとか君など、それなりに多彩な陣容だった。そういうことのできる荒岱介は、やはりすごいと思った。
 しかし、荒の関西ブント批判も田原芳批判も、実は理論とも言えないデマに近いものだった。日向過渡期世界論といっても、塩見などが言っていたことを、レポート風に提出したものにすぎないし、関西ブントを貶めるため、宇野経済学に批判的な関西ブントなんぞ構改左派だ、とか、ソ連論をやる田原芳はプロ・スタだ、などと言って、学生運動としても、経験もなく未熟な、にわか幹部や学生をたぶらかしたりおだてたりして盛り上げていたのだ。
 私は、千葉の合宿でも、どうして、関西の指導者が、荒の批判攻撃に、なすすべがないのかと思っていたが、問題は、論争になるほどの理論的なことではなかったのである。実質、ブントを指導していた三谷さんにしても、関西ブントをいろいろパロディー化する荒を可愛い元気なやつだ、くらいに思っていたのかもしれない。
 荒が、実際の活動には現れなかった田原さんを躍起になって批判していたのかは今にして判ったようなのは、情けない。田原さんも、荒は5-60年代の議論を知らないから、と荒の知識と経験の欠落からくる難癖くらいに言っていたが、実は、本多延嘉を仰ぎ見、家父長的な権力に憧れる荒にとって、ブントでは唯一、綱領問題から共産主義論、赤軍派批判と党組織論を展開する田原芳は邪魔だったのだ。

 
 今、荒の政治党派を率いる者としての問題を言おうとしたが、政治家としては、先がない、というより、出発からしてあぶなかった。それでも、実際には傑作な人物だと思っていたので、『破天荒伝』なる、あまりできのよくない洒落でつけたタイトル名の荒の自伝を読んだとき、少々というよりかなり残念だった。期待したより、はるかに、面白くなかった。
 ただ、桐山襲の小説の「父親」が、荒の実父とダブってしまった。桐山が早く死に、荒もまた亡くなって、そのことを直接聞く機会は無くなった。
 また荒が、知ったかぶりの塩見孝也をからかって、カフカをどう思うか、と尋ねたとき、塩見が、「『変わり身』か。それは、わしらのことを書いた奴やろ。」と答える場面が出てきたときには、できすぎた馬鹿話のようで笑ってしまった。しかし、一笑いすると、よくも、こんな粗末な精神の男(塩見)に、かき回されていたのかと思う。それは、あまりにも貧相な情景だ。
 荒は、赤軍派の登場のきっかけが、安田講堂攻防をめぐる問題であると『破天荒伝』に書いている(よく読むと実際には事実と違うのだから、事実に即した叙述なら違ってきている。しかし、荒自身の思い入れから力点がそこへ行く。)。それは、映画『実録・連合赤軍あさま 山荘への道程』にも採用されているらしい。安田攻防戦をめぐる問題としては、米田を社学同行動隊長にして、荒自らをその学生組織の指導者的存在としての表現するきっかけになったかもしれないが、赤軍派の結成とは全く関係がない。
 塩見たちのグループの動きとしては、'68年の秋の国際反戦デーに兆していることは判っている筈だ。というより、'69、4・28をめぐって、街頭闘争の行き詰まりと戦術論議を聞かされていた。
 安田講堂の激しい攻防戦において、たしかに「社学同」の旗は翻っていた。激しく戦われ、学園闘争としては、確かに未曾有のことだった。が、どのような政治焦点になると言えるのか。安田講堂の激闘が終わり、山本義隆が、東大全共闘代表として記者会見していた。たしかに全共闘運動の一つの山が終わったかのようだった。(記者会見するのは山本義隆だが、安田講堂に翻るのは、党派の旗が目立った。あげく、9月には、党派が集まって、山本義隆代表・秋田明大副代表とする全国全共闘なるものが結成された。全国全共闘などと言いながら、党派による集会だった。)
 安田講堂攻防戦の半年前、日大の神田の学舎は、一旦、機動隊によって、強制執行され、当局行政の管理下におかれた。'68年の夏休みのことで、テレビニュースで全国に流されていた。空前絶後の日大闘争も終焉かと思った。機動隊による封鎖解除がなされた学舎は、大学などの管理下に置かれるという表示が、新たに設けられた板囲いに取り付けられていた。
 ところが、その学舎を、日大全共闘が、あっという間に奪還してしまう光景が流れた。それは、今までの学園闘争だったら、そうだった。その神田の通りが静まりかえったかと思った途端、歓声ととともに、あちこちの通りや、建物の間から、学生が飛び出してきた。学舎に打ち付けられた板を、塀に跳び乗った学生が、一気にひっぺがえしていた。
 これは、いままでの学園闘争でみた成り行き、つまり、機動隊による学生排除とそれに伴った右翼や体育会も加わった沈静化とは全く異なっていた。日大では、その後、あの有名な両国日大講堂(旧国技館)での大衆団交となっていった。
 日大闘争の記録である『反逆のバリケード』は、ベストセラーになった。東大闘争の記録の代表的なものと思われる『砦の上に我らの世界』は、私は存在を知っているだけである。
 登録医制度問題に端を発した東大闘争は、医学部当局の不手際もあって、現代知識人の問題として話題になった。東大の助手や講師が発言したり、参加したりし、「自己否定」ということが言われた。大学の存在や、知識人のことが話題になった。パリの五月革命アメリカの反戦運動主体が知識人であることから、その共通感覚もあった。中国文化大革命は、走資派批判からはじまって、出自を問い、下放運動へと展開していった。
 これらは、個々に検証されなけばならない。例えば中国文化革命では、血統主義がとりざたされた。知識人の子弟や、日本に血縁のある人は迫害をうけた。しかし、最初に、精華大附属中高の壁新聞に、最初に「紅衛兵」と署名した張承志は、『私の紅衛兵時代』(岩波新書)は、そもそも、紅衛兵が蜂起したのは、そうした旧中国社会の「血統主義」批判だったことを回想している。蜂起した少年たちは、慈愛に満ちた周恩来に、「おまえ達の言うことはよく判った。なにせ、おまえ達の父親は、同志としてよく知っているのだから。」と宥められた、従った。陳は、このとき、紅衛兵だった陳たちの文革が挫けたと書いている。その後の紅衛兵の運動は、まさに、否定しようとした血統主義だった。「反革命」だった。
 『1968年』(ちくま新書)のすが秀実が言うように、'60年、安保闘争が、少数派知識人の運動であったとしたら(西部邁のはなもちならない、成り上がりエリート臭には、その要素は多分にうかがえる)、東大闘争は、多分に、その系譜かもしれない。
 荒が、安田講堂攻防戦を、赤軍派などの政治路線を決定づけた戦いだったと、誤解しているのは、'60年安保ブントの復元が、自分の政治路線と考えたのと、勘違いの点では符号するのかもしれない。
 情けないのは、荒が、広松渉に師事し、勉強を初めながら、ハイデガーを「20世紀最大の思想家?」だからという理由で取り上げた(チャンピオンらしいから叩こうという訳か?「解釈」というのもマルクスを勉強したものの言い方ではない。)り、マルクス主義をやめて、環境運動をすると宣言することである。まるでマルクスがわかっていないものの言い方ではないか。

 
 よく言われることであるが、荒自身が中心になって、つまり主流派として大衆運動を展開したことはない。革マル派が優勢な早稲田にあって、民青自治会が主流の法学部に入学し、荒が始めて戦列に加わった65-66年の早大学費学館闘争の全学共闘会議の議長は、解放派の大口昭彦だった。大口は神戸の長田高校出身の、一年生当時既に剣道三段の猛者だった(都立高校の弱小チームのピッチャーの荒とは水準が違う。このことは荒も言っていた。)。
 それでも、中学・高校の野球部でピッチャーをしていた荒は、目立つ存在だったであろうし、塩見孝也オルグについて、「今から考えると彼は早稲田にケルンをつくりたいと必死だったのである。そのための第一級のターゲットとして私をオルグしたいと思ってくれていたわけだ。」と言っている。荒が、塩見にとられたと思った解放派の中原一が、塩見と激論し、あげく、塩見は、早稲田で解放派にリンチされるということまで起こったことを、荒は書いている。荒は、確かに、その期待に応えている。社学同早大支部機関誌『若きボリシェビキ』を刊行し、社学同機関誌として『理論戦線』を復刊し、学生運動の理論展開を図り実現していった。書きたかった文学作品の代わりに、理論とはいえない、塩見の断片に反応し、肉付け体系化した日向理論が、革マル派解放派、マル戦派を意識しながら書き上げられていった。そして、このようなことは、荒が、革マル解放派中核派に属していたら、必要もないし、出来ることでもなかっただろう。直接には、マル戦派との論争での惨めさを荒は書いている。塩見は、マル戦派の理論に全く対応できなかったと書いている。
 荒が、一挙に書き上げていったものは、塩見がもちこんだ「過渡期世界論」の書き直しである。過渡期世界論というのは、革共同が、「反帝・反スタ」と二元論的世界観を構想するのに対して、ロシア革命以後の世界を過渡期世界として世界を認識しようとしたものである。そこでは、ソ連論や共産主義論は必須の課題なのである。その課題を検証していた田原芳を、荒はこともあろうに、革共同風の非難を浴びせ、排除していったのである。
 荒は、69年の夏に、「もっと論争をやろうぜ!ただ、俺は、一気に400枚くらい書いちゃうんだからさ、そりゃあ、たまに変なところが出てくるよ、だから、そこだけ見て、おかしいぞ!なんてのはやめてくれよ、な。」とつまらないことを言っていた。文学作品を書く初心者のような言い方だった。文学作品でも、というより、文学作品にとっては推敲は必須だ。しかし、その情況のなかで書き上げなければならない政治的パンフレットは、戦術や論争のものだけに、これまた、粗雑なことは許されない。
 それでも、荒は、関西ブント系ブントのなかでこそ、水を得ることができた時代の寵児だった。しかし、とんでもない誤解が重なり、荒や荒グループを無惨なものにしていった。
 廣松渉に師事するのはよい。しかし、「さよなら共産主義」で、マルクス主義を生産力主義だと書いている。田原芳の晩年の課題の一つは、生産力主義批判であったことは、周知のことであったはずだが。資本主義の無政府性暴力性こそ、マルクスが分析批判しているものなのだが。
 荒は、69年9月の赤軍派の結成宣言ともいうべき「戦争宣言」のなかに、「反革命なら殺してもいいのだ」という脆い論理がすでに含まれていると指摘している。このように、全く才能が無いこともない荒岱介という男を、小さく、無様に挫折させたのが私たちの時代だったのか。
 そういう意味では、荒岱介もまた、我々の時代の人ということになるのだろうか。