いまいち!!桂文珍

 毎日新聞(2011/7/30)大阪版夕刊に、桂文珍の独演会についての記事があり、「『数は正義』に笑いで一石」という例によって、毎日流のさむい洒落の見出しがあった。
 大阪のお笑い系芸能人、特に吉本所属の芸能人は、三枝以下、橋下徹を芸能人仲間と思ったのか、大阪府知事選には応援して、結果切られるという悲喜劇を演じている。下劣な野心家に乗せられて切られる、芸能人の典型であるが、橋下を人気者にした、マスコミや芸能人の罪は重い。
 以前のこと、吉本興業が、これほど隆盛をきわめる前のことである。ロスの銃撃事件で疑いをかけられた三浦氏など、テレビ放送の餌食にして、まるで、リンチ・ショーにような番組をつくると、その獲物を、食い散らかす役割を、芸人達にやらせていた。
 佐藤幸治京大名誉教授など、このリンチの情景をみて、裁判員制度のヒントを得たのかと思うばかりである。
 文鎮は、「数は正義」ではない、と言っているのかと思ったら、なんと、「民主主義は簡単にいえば数の力、多数派は勝っていく。そやけど少数派でも正しいことがある。大衆芸能の世界にいる人間だからこそポピュリズム大衆迎合」がわかるし、その危うさわかると思うんです。」と言っている。

きどって「ポピュリズム」なる用語を口にしている。NHKで連続番組をもっているらしい。『毎日』の文鎮を紹介している文に、文鎮が瀬戸内寂聴のことを言っていることを紹介している。このようなことを紹介する『毎日』の記者も下劣だが、もとは文鎮が下劣だからだ。悪口を言っているわけではない、反対である。この多くの功績ある女性を、いわば、「可愛いおばあちゃん」と言っているようである。以前から、文鎮のこの傲慢さは気に入らなかったが、最近とみにひどくなったのではないか。

 とにかく、民主主義は数の力ではない。数の力になったとき、民主主義は死んだ、ということが判らないといけない。正義が数で決まるわけがない、というのは、本当は、教えて貰わなくても、判らないといけないのだが。結論を出さないといけないときの手続きの方法の一つであるという認識がまるでないのはどういうことだろう。原発の建設や再開なども、数や議論で決めるものではない。安全性が、本当に保証されないと、建設も再開もあり得ないだろう。
 裁判員裁判では、最後は多数決になることがありうる。持っているポイントは、素人と判事は違うのだが、問題は、法的な論理的な評価なのである。どうして数で、有罪無罪を決することができるのか。
 この日本の腐臭は、気取っている文鎮も判らないようである。