NHK連続テレビ小説「まれ」のつまらなさというより酷さ


 NHKの朝ドラ「まれ」が低視聴率に喘いでいる。朝からキャッキャッと騒ぐヒロインの声が煩わしい。評判が芳しくないので盛り上げようとしているかのような無理なはしゃぎぶりが、すべっているようにも見える。
 多くの芸達者をそろえながら、乗れない上っ調子のドラマを見ていると、脚本(篠崎絵里子)の拙さが気になる。脚本に関しては、桧山珠美から同情の声があった。篠崎は、シリアスな題材で評価を得て来た人なので、コミカルなものは不得意なのだろう、ということである。篠崎が評価を得てきた作品というのは、『クロサギ』06年、TBS系)や『震える牛』(13年、wowwow)、『紙の月』(14 年、NHK総合)、さらに映画『あしたのジョー』(11年、東宝)などは原作それ自体が評価を得てきていたものである。視聴者が言っているのは、思いつきのようにとってつけた話が適当に出てくることである。例えば、結婚式にも姿を見なかった姑(藤吉久美子)が突然現れて仕切りだしたのには、有働由美子とか柳澤秀夫といったNHKの人間があっけにとられていたようだ。
 ドラマなどは、多くのスタッフの協力作業である。演出している人にとっても気になるだろう。


 番組の開始後、「ちびまれ」は視聴者には好感度だったらしい。反面、大泉洋演じる父親、津村徹の言うことは、脚本に書いてある台詞だろうが、つまり、作者の意図なのだろうが、不愉快だった。田中泯扮する塩職人桶作元治に、もっと機械化したら、楽すればとか、生産性あがるのに、と言った馬鹿でも言わないことを提案していた。田中泯が潮を入れた桶をもって舞うように塩田に潮をまく姿は、このドラマの見所の一つだった筈だ。それをみていた「ちびまれ」が無意識に泯を真似て舞うのもこのドラマの秀逸のシーンだった。
 馬鹿な父親徹の台詞を聞くなり、田中裕子扮する桶作文が、津村一家に退去を要請した。桶作元治の潮打ちをみたちびまれは、父親の無知な非礼を詫びた。元治は、文に、津村家を「もう少しおいてやってはどうか」と声をかける。父親徹の度しがたい馬鹿さとまれの人柄は田中泯と田中裕子の存在とともに、まずはよく出来ていたようである。
 それにしても、父徹の馬鹿ぶりは度しがたい。このどうしようもない軽い能力も無い馬鹿と常盤貴子が夫婦でいるのか、その不快感は視聴者に続いている筈である。


 脚本が、あまりにも嘘っぽい、もし現実にあるとしても、それは、非常識であるとかの認識がなければ、だらしないだけの話になる。頑張ると言って出た父親徹がどうして娘のまれの寄宿舎に寄宿していて平気なのか、さっぱり落ち着かない。はちゃめちゃがよいと思っているのか、だとしたら、NHKのドラマは全く駄目というしかない。
 NHKって、「安倍様のNHK」ってひょっとしたら、本当なのか?だとしたら、このドラマのだらしなさもありうる。娘の寄宿者に寄宿していて、3年も頑張ったなあ、とは役者もしらけるのじゃないか。
 一方で、3年修業することになったそうだが、その修業のあとがさっぱり見えない、とは、名前を知らない視聴者の声だが、視聴者にそう思われてしまうのは、脚本家篠崎には現実感覚が欠落しているのか、でも篠崎(の脚本)を採用した者も演出も気にならなかったのだろうか。
 だからなのか、意味もないぱくりかパロディーが入ってこれまたしらける。仰々しいのは、フジテレビ系で有名だった「料理の鉄人」は出演者やセットまで、ほとんどそのままで登場する。話としては、家族がどうのとかいう話題らしいが、さっぱり分からない、
 中村敦夫塗師の五代目を孫の啓太に継がすとかいうことで、息子の板尾に意見を聞く場面がある。中村元紋次郎に、板尾が「あっしには関係の無いことで」みたいなことを言わせる。篠崎にしたら楽しんでいるのかも知らないが、全体ががたがたになっているとこでしゃれられても、しらけるのではないですか。


 とくに、桶作家のところだけにしているのか、人びとが平気で上がり込んでいる。「あまちゃん」ほとんど見ていないが、みんなが寄っていたのは、喫茶店かスナックだったのじゃないか。能登の田舎だからとそういう設定にしたのか。
 篠崎にしても、NHKのドラマ部にしても、家とか家族が、能登には無いと考えているのではあるまい。それにしても、徹の台詞にもしらけるものが多すぎる。