1259330143*四方田犬彦『ハイスクール1968』(2004 新潮社)から
 すが秀実『1968年』(筑摩新書 2006)小熊正二『1968』(新曜社 2009)が話題になっていたので、西宮市立図書館で「1968」を検索すると、四方田の2004年の著書『ハイスクール1968』が出てきた。
 実際に四方田の著書を読んだのは、これが始めてである。本の題名は、ハイスクール1968であるが、本の中心になるのは1969年12月8日、四方田が通っていた教育大付属駒場高校バリケード封鎖である。教駒全共斗のバリケード封鎖は1日で終わったが、7人の教駒全共斗が投げかけた衝撃は、教育大の移転改組問題などの3項目以上に、それまでの日常的なハイスクール・ライフを覆し、諸々の人間関係の陰影をあきらかにし、反転させた。
 確かに、スーパー高校生四方田の学力や知識は、エリート教駒生のなかでも秀逸である。が、四方田も書いているように、1969年12月、教駒全共斗のバリケード封鎖は、高校生の叛乱としては、むしろ終末期であり、烈しくもない。しかし、その時代と高校生の姿を当時のベストセラーよりも明らかにしている。というより、四方田とほぼ同世代の受験生を主人公にした庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』という芥川賞受賞作品との隔絶した思いが、四方田にあった。その意味で、バリケード封鎖は1日で終わったが、『ハイスクール1968』は、その芥川賞受賞作品より、はるかに当時を表現する代表的な作品になっている。
 付属駒場の学園史からも、その69年の紛争が抹殺されたり、そもそも、大学紛争についての記録はやまとあるが、高校生紛争の記録がほとんどないことも、『ハイスクール1968』執筆のきっかけになっているという。
 四方田は、しかし、79頁から80頁にかけて、団塊の世代への嫌悪感を述べ、彼らに「張競が抱いているような、仮借なき自己認識」を求める。その団塊世代への嫌悪感は、戦後に復員してきた父親の世代の自慢話に対するものと同じだという。私は、復員してきた父親の世代の自慢話についての記憶はあまりない。大変な時期を過ごしたということの思いを、私たちへの優位性として誇示するようなことはあった。そうではなく、私が子供のとき、タイで徴用されていた父の部隊の点呼が、各国、まちまちの言葉だったと言っていたのを思い出すばかりである。学徒で出陣した帝大生が、九州出身の兵隊に理不尽な暴行を受けたというのは、恩師の一人が、大きな声ではないが、いつもの穏やかな声に似合わぬ調子で聞かせてくれた、恩師最悪の不愉快な思い出だった。その恩師は参加していなかった、あの「雨の神宮外苑の壮行式」の映像が、九州出身の庶民兵ルサンチマンを掻きたて、忌まわしい学徒兵いじめになったと聞かされた。救いようのない悲惨な軍隊である。そんな軍隊のどこから、四方田は、自慢話を聞いたのだろうか。
 あの戦争では、必ず死ぬんだ、君らの全共闘と一緒にしてもらっては困る、と言って戦中派を自認する恩師がいた。あの軍隊は奴隷軍だよ、わしは奴隷軍にいたからよく判るんだ、とマックス・ウェーバー研究でも名が知られたその恩師は言っていた。そんな奴隷軍と一緒にされるのは、こっちの方が、お断りだと思った。
 尤も、私は、戦後復員してきた男と結婚した女性が、寝物語に戦地で遊んだ話を聞かされた不快感を聞かされたことはある。さらに無惨なのは、その戦地で罹病した性病によって、生まれた子供に障害が出たという悲惨な話であった。
 四方田が聞かされたという、団塊世代の自慢話は、どのようなものなのかよく判らないが、当時の私が目を瞠ったのは、1968年の夏、神田の日大文理学部に機動隊が入ったあとの光景を写したテレビの映像であった。神田の日大学舎は、裁判所の書類とともに板を打ち付けられ閉ざされた。流石の日大闘争もこれまでかと思った。その直後、あの通り、この通りから叫びながら学生が飛び出して来た。塀に飛びついて、警察が打ち付けて行った板などをはがしとばして、あっという間に再占拠してしまった。64-5年の慶応学費闘争、65-6年の早稲田の学費学館闘争、その後の明治の闘争とは、全く次元を異にしていた日大闘争、日大全共闘だった。
 それに先立つ1年以上前の日大では、新入生歓迎会として羽仁五郎の講演会を行おうとした。講演会冒頭、乱入した体育会系の学生は主催者学生を襲い、頭を壁にぶつけるなどの暴行を加え、脳波異常を伴うなどの重傷を負わせた。なんとその大学は、その被害学生を混乱を招いたとして処分したのである。

 1969年、春は、全国の大学でめぼしい大学には赤旗が翻っていた。多くの大学でバリケードが築かれていた。それに対して中教審の答申が出て、すぐさま、国大協をはじめ、その答申に異議が出された。関西大学の教員組合の事務局があった建物のバルコニーからも「中教審答申に反対する」垂れ幕が吊されていた。要するに、日本全国の大学人の多数が、中教審答申に反対を叫んでいた。ところが、近畿大学では、こともあろうに、中教審の森戸辰男会長の講演会を企画した。近畿大学に実際にどのような意図や計画があったのかは判らない。とにかくも、このようなあからさまなことが出来るのは、近畿大学しかなかった。文部省との蜜月関係のアピールはもとより、近畿大学にも少数ながらいる過激派学生をあぶりだす機会にもなった。そして、もし、この講演会になんらかのかたちででも登場できないよう「過激派」であれば、それは、過激派でも左翼でも民主派でさえないと考えてよいことになる。
 二桁いたのだろうか、近大のブント系の学生は、少しは考えたと思う。問題としては複雑ではない。玉砕か、そうでないかだけだろうからである。当日の彼等の具体的なことはほとんど知らない。ただ、待ち受ける体育会幹部OBの事務職員や体育会や応援団右翼の数百人を前にして、足はすくんだであろう、声は出たのであろうか、「チューシン(中審)フンサイ」「安保フンサイ」と言ったか。後で聞いた話は、職員などに集団暴行をうけ、内蔵破裂などの重傷で入院したという話である。もちろん全員、リンチを受けた上での逮捕であった。
 一体、お前ら、何なんだ、命も危ないじゃないか実際。なんだか、そんな学校でも一度入学したら、自分の大学だということなのか。
 私の知る団塊の世代の連中は、四方田の「団塊の世代」の人間と違って、語れないのかも知れない。
 四方田は「張競が抱いているような、仮借なき自己認識」と言った。それは「文化大革命が中国の知識人に与えた自己悔悟の深さ」と言っている。ここに、四方田が、文化大革命を、中国史における問題として認識していないことがあるのではないか。単なる集団ヒステリー以上の何をみているのだろうか。
 かつて、吉川幸次郎は、旧中国と新中国での一つの大きな違いに「文」をあげていた。わたしたちは、読書人階級支配の社会における胡適の新文学運動(白話運動)の提起に鈍感である。胡適が1917年『新青年』で白話文学を提起した翌年から、魯迅のめざましい創作活動がある。
 文革のほんの最初の蜂起した精華大学付属中学の生徒だった張承志は、紅衛兵と壁新聞に署名したが、そこで、血統主義批判を訴えた。血統主義こそは、旧中国社会の大きな遺物だったのである。ところが、その蜂起の最初に、誰もが、その慈愛に感動する周恩来が、少年達を優しく、自分は君たちを親の代から知っていると言った、という。張は、そのとき、自分たちの蜂起が終わったと思ったという。つまり、血統主義批判として立ち上がった自分たちに、親の代から知っていると、血統主義で宥められたのである(張承志『紅衛兵の時代』岩波新書)。私たちが、文革時の象徴的なこととしてよく聞いた、地主の子や知識人の子に対する迫害は、実は、伝統中国の血統主義によるものだったのだ。一瞬にして、「文化革命」は、逆送していたのである。

 四方田は「仮借なき自己認識」をすることを提起してくれた。そして、大学紛争に比べて皆無に等しい高校紛争を、しかも、付属駒場という、一高校の歴史からも抹殺されかけている教駒全共闘バリケードを書き上げた。四方田は、やまとある大学闘争の記録とのことを言っていたが、しかし、先の近畿大学の「事件」もそうであるが、関西大学全共闘も、仮借なき自己認識からのものは無いのである。(変な言い回しをしたのは、関西大学というのは、奇妙な大学で、きわめて丁寧な、全共闘の記録が、関西大学百年史編纂委員会専門委員会の手で作成されている。)
 
 暫く、準備運動をして、その作業をしていくことにする。(27 Nov.2009)