不適切な文部科学大臣だった下村博文も日本会議=新宗教派原理主義だった


 tono-taniの日記(2013.9.22)は次のようなことを書いていた。

安倍晋三首相が福島第1原発事故をめぐり、「状況はコントロールされている」と述べたことに関連して、福島原発事故に懸命の対応している東電の関係者が民主党の会合で汚染水漏れ問題について「コントロールできていないと考えている」と述べていた。
 関係者にすれば、危険な現場で懸命に作業しながら思うような結果な出ない状況で苦慮しているのに、何が「アンダー・コントロール」だと思うだろう。
 ちょうど、多くの戦死者、餓死者、病死者を続出していた戦争で、無責任な日本の上層部が「大本営」発表を繰り返していた戦時中の日本軍を思い出す。
 そういえば、この完全にブロックしたり、アンダー・コントロールの「大本営発表」していた男は「国防軍」を提唱していた男だった。
 ところが、下村博文文部科学相は「同じコントロールという言葉を、後で東電職員が使ったのは非常に迷惑だ」と語り、東電側を批判したそうである(毎日新聞9月20日)。
 下村文科相は、「首相が『コントロールされている』と発言した意味について『(汚染)は福島第1原発圏内に封じ込められ(これは嘘か、無知でしょう)、東京で水や食料の心配はないという意味(これも言い切れるか、しかも、東京は無関係というのは、あまりにも無神経である)だ』と説明した」そうである。
 下村は、文部科学相というより、東京オリンピックパラリンピック担当相として発言しているようだが、このような、虚言を前提にして、それは福島のことだ、東京は関係ないというような、一国の首相の発言を、教育を担当とする大臣として許容できるのか。
 下村は、生命の危険もある現場で懸命の作業に従事している人々の言葉を、大本営発表と異なる発言をするとは何事かと言っている。
 安倍晋三の旧日本軍の亡霊ぶりは論外だが、下村博文の教育を担当する大臣としては不適切極まりない。


 とんでもない文部科学大臣がいると思っていた。


 下村博文は、2015年6月8日に、国立大学の人文科学系、社会科学系、教員養成系の学部・大学院について「組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組む」ことを求めた文部科学大臣決定を通知している。      下村は人文科学・社会科学、教員養成系について「組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組む」ことを求めたそうである。下村自身は教育学部らしいが、それをどう思っているのか。「社会的要請の高い分野」とは何か、さっぱり判ってはいないのだろう。下村たちは自然科学がどんなものか判ってはいないのだろうし、ましてそれが、社会科学・人文科学のどのような支えにあるのかも判ってはいない。    
 それは、下村が「親学(おやがく)」とよんでいる教育論を推進していることからも明らかである(親学推進議員連盟・事務局長)。この親学ということについては2014年9月6日の東京新聞が「『親学』考」で、「非科学と時代錯誤の家族観」「推進議連に閣僚ずらり」と報じた。親学というのは”親として学ぶべきことを伝える”と明星大教授高橋史朗が提唱したもので、先に見た「親学推進議員連盟」まで結成され、そこが2012年5月に「発達障害は予防可能」「発達障害の原因は声かけの少なさが原因」などというおよそ科学的とはたても言えぬコメントを出して物議を醸したという。要するに親学なるもの「トンデモ」科学の一種なのである。日本青年協議会幹部としての高橋については別に見る。


下村博文は、神道政治連盟国会議員懇談会に属しているらしい。崇教真光において講演し、同団体の52周年秋季大祭において来賓挨拶し、月並祭へも参加している。
その感覚で、日本教職員組合問題究明議員連盟で、大戦前の感覚を維持していては、それこそ、教育も国も滅ぼすものとなる恐れが充分にある。というより、かなり滅ぼし始めている。
それが日本会議という、生長の家原理主義が母体の団体の国会議員懇談会の幹事長である。