角田猛之『戦後日本の〈法文化の探求〉―法文化学構築にむけて―』(関西大学出版部2010)の問題 その2  ……母校関西大学とりわけ法学部を思う②

三 角田猛之『戦後日本の〈法文化の探求〉―法文化学構築にむけて―』(関西大学出版部2010)の問題   その2

A
 前節で、2010年刊の角田著を見てたじろいだのは、44年前の関西大学法学部の見識とプライドを思い出したからである。関西大学出版部の出版基準を疑い、知的水準が気になったからである。有り体にいえば、著しく、母校愛が刺激されたのである。2年近く前に出版されているのに気が付かなかった。初出一覧をみると、既に2004年に、関西大学法学論集に、知的に危うい論文が掲載されいるのである。迂闊といえば迂闊であった。

B
 角田の所論をフォローするのは、極めて困難である。先にみたように、〈法〉にしろ〈判例法〉にしろ、角田には、きちんと学習した痕跡がなく、勝手な言い方ばかりが目に付くからである。それが、我が関大法学部の教室でも使用されていたら、それは堪らないと思ったのでる。
 つまり、角田は、自分が、無規範で、勝手な言い回しをしているのを、それを「……まぁイイだろう』式の発想と行動様式がしばしばみられる日本社会においては枚挙にいとまがない」例の一つと洒落ているのであろうか。そんなしゃれっ気なないだろう。自らの醜悪さを顧みる余裕などあり得ず、ひたすら「日本式」なるものを妄想しているのである。

C
角田の言辞は、勝手なのでわかりにくいが、とくに「母体保護法による人工妊娠中絶の『自由化』」などと言われるとよく分からない。要するに、母体保護法を利用することで、妊娠中絶が頻繁に行われている、と言いたいのだろうが、大袈裟に「自由化」と言っている。角田は、これで、何か主張したつもりだろうが、やぶ蛇である。本当に「自由化」などされていると思うのか。思っていたら大馬鹿者である。角田は思っているから大馬鹿である。母体保護法によって、保護されなければならないことがあるのである。母体保護法の要件に抵触すれば、犯罪である。医者は医者資格を失い、生業を喪失するのである。それ以上に、その犯罪の被害者を考えなければならない。
 関西大学法学部の刑事法担当者をはじめスタッフは、かかる破廉恥な人物を、自らの構成員として抱え、ほぼ初っ端に出てくる破廉恥な言辞を野放しにしているのか。
 最近、あちこちに「ストップ人身取引」とする、内閣官房内閣府警察庁法務省・外務省・文部科学省厚生労働省海上保安庁によるポスターをみる。「ストップ人身取引」という大きなタイトルの上には、「それは、日本で実際に起きている」とあり、下に
「よその国の話ではありません」とある。犯罪の話である。
 角田は、売春がいかなる犯罪であるか、ということについての認識が著しくというより全く欠如しているのに違いない。でなかったら「……まぁイイだろう」などとは言い得ないからである。
 角田の300頁を越す「日本の法文化」についての著書は、このポスター1枚で無効といわざるを得ない。このポスターのどこに「まぁイイだろう」があるというのか。さらに、おどろくことは、この角田が海上保安大学校で講演しているのである。講演を依頼した海上保安大学校の責任者は、講演に伴う出費をただちに補填しなければ、国賠法による訴えが提起されることについての覚悟がなされているだろうか。
 
D
 角田は千葉正士のtrickに悪のりして、「また『アウトロー』たるヤクザ集団――オウム教団も国家法を否定するという意味においてはまさに『法の外』=“out law”であった――は一般市民とは次元をことにする、厳格な自律的集団としての『掟』を有し、また親分=子分という疑似家族的イデオロギーを媒介とする独特の組織原理を有している」などと書いている。嘘もほどほどにしなさい。千葉がそのようなことを書いているのかもしれないが、角田は、オウムもヤクザ集団のことなど、まるっきり知らないまま書いていることは、明らかである。どこが「厳格な自律集団」なのだ。どこが国家法を否定しているのだ。オウムも必死で宗教法人格を取得し、それの保持に必死だったのは明らかじゃないか。国政選挙に出たのも有名な話だ。両方ともに、自らの欲望の充足活動が国法に抵触して犯罪集団になっただけで、「国家法を否定」などと大袈裟な言い方は何を考えているのか。目を覚ましたまえ。木枯らし紋次郎とは違うことくらい常識人だったら分かる筈だろう。
 いろいろ、文献つかって、法学部教授と称する者が、もっともらしいことを言ったつもりになっているのを見ると、背筋が寒くなってくる。

E
 だいたい、法というのは、多くの条件をもとにして成立しているのである。「法」を科学的に認識しようとするなら、それを成り立たせている条件を考えないといけない。その意味で、紀元前からある職業とされる売春は、さまざまな条件のもとに、合法と許容されたことも多い。逆に言えば、生きて行くために売春せざるを得なかったわけで、決して「まぁイイだろう」ではないのだ。
 角田は、「マルチ・リーガル・カルチャー」なるものをスローガン風にして、売り物にしている。これが、意味不明の「まぁイイだろう」式と親近的である。
 「マルチ・リーガル・カルチャー」など、これも何か法や文化と関係ありそうな言い方をしているが、少なくとも法とは無関係である。文化といえば、自然ではないもの、人間の作為によるものをすべてそうだとすれば、それはいろいろあるだろう。つまり、それぞれの地域で、それぞれいろいろあるわけで、「マルチ・リーガル・カルチャー」となんだかいろいろ人名など出して誤魔化しているが、要するに、「あなたはあなた・私は私」ということだろう。つまり、共通するものの逆を行くわけである。これでは、規範にもならなければ、法である筈がない。それぞれの、いわば習俗があるだけである。どうぞご勝手に!というわけである。ここに、「まぁイイだろう」との接点が出てくるのである。答えは、「法ではない」ということである。種々の欲望を克服して、規範、つまりは法などが成立するのである。「法学部教授」に今更言うことでもないので、略するが、角田は、一神教多神教とパターンのように書いている。これも、満足に高校教育も修得していない状態である。
 おそらく、多元と法を結びつける論者の趣旨は、法の成立する条件に多様な要素がある、というくらいのことでなないかと思う。もし、そうではなく、「貴方の法、私の法」のようなことを言っているのなら(角田は、おどろくことに、キリスト教イスラム教についての、高校生にも見かけにくい無知を曝している)全面的根底的な見直しを迫られなければならない。
 「マルチ・リーガル・カルチャー」など法ではない。「まぁイイだろう」これも法ではない。
 関大法学部教授角田が語るもの、これも法ではない。