母校関西大学とりわけ法学部を思う


一 1969年7月7日朝、関西大学法学部教授会(中義勝学部長)中谷学長不信任決議文送付

 昨日は、2012年7月7日だった。44年前の7月7日朝、関西大学法学部教授会(法学部長中義勝)は、中谷敬寿学長宛に不信任決議文を送付した。
 1969年7月5日午前4時すぎ、本部会館が封鎖されていた母校の関西大学に機動隊が導入された。それが今回の問題ではない。機動隊を導入して、ことの沈静化を図ろうとした当時の中谷敬寿学長を、中(なか)義勝を学部長とする法学部教授会は不信任決議していたのである。「していた」というのは、当時、法学部の学生だった私たちは、日学同という民族派全国組織の拠点校の面子にかけた右翼組織の逆襲や、混沌とする政治状況に気をとられて、教授会の動向には、あまり関心がなかったのである。機動隊によってロックされた法学部研究棟の前にいくと、数人の法学部教員が心配してロックされた状況を点検していた。その中に、中(なか)法学部長がいた。「あっ!法学部長の中(なか)!」とさけんだ。社会学部の大柄な学生が腕をつかんだ。中は、前々年には学生部長として、その年発生した生協靴部事件の法学部学生の処分などをめぐって、各学部の自治会や生協組織部学生などに攻撃され、法学部でない学生にも知られていたのである。
 その7月7日の、当時の夕刊紙大阪新聞はもちろん、各社の大阪版夕刊は、学生の先頭に立って、機動隊導入抗議のデモをする中の写真を用いた。その1年前、米空軍のRF−4Cファントム偵察機が、建設中の九州大学大型電算センターに墜落したことにおこった事件で、九州大で刑事法教授の井上正治が学生と「共闘」したことも、世間的には想起させたようだ。
 しかし、九大事件が、反戦運動の発展であるのに対して、関大では、国家主義的な憲法学者の学長中谷と日学同系右翼学生体育会連合に対する動きのなかで、中は、全共闘学生の先頭で、抗議とデモを繰り返していたのである。先に、私は、社会学部学生に腕を捉まえられたままデモに出発したのを見ていた。しかし、その後、私は、他の用事にむかっていて、テレビなどのニュースでも、中学部長の存在が多くの人に印象づけられていたのは知らなかった。中もいや、あれは学生に捕まってしまってなどというような言い訳は一言も発しなかった。
 あれはどういうことだったのだろうかと長く思っていたところが、当時の新聞をみると、7日の朝のあのとき法学部教授会は、学長不信任を決議し、そのことを表明したあとだったのだ。中の行為は、実は、自分自身の意思の表明であり、法学部教授会全体の学長に対する抗議の意思表示でもあったのである。
 法学部教授会の意思表示は、もっと大所帯の文学部教授会も揺るがした。『関西大学年史紀要』によると、文学部教授会は9時間の審議の末、鈴木祥蔵文学部長の辞任を認め、法学部と同趣旨で8日に学長不信任を決議したというのである。
 (1969年の中が学部長だった法学部教授会は、プライドが高く見識もあったようだ。まさに関西大学の中核だった。構成員は文学部や工学部より少ないけれども、その意向は、まっとうな方向に向かっていて、全学の進むべきを示しているようだった。その後、明石三郎とか中義勝といった学会でも尊敬をあつめる人が学長の職につくことになる。)
 その前年になると思うが、私は、関西の刑事法の長老格であった佐伯千仞の講演会を催した。佐伯を出迎えようとする私の前を中が通りすぎようとしたので、声をかけた。「あれ(佐伯の講演会)は本当だったのか?」と言い、会場に向かった。質問のあと、中が佐伯を応接室に案内して挨拶し、私に訓戒しはじめた。「……アドバルーンばかりじゃだめだぞ」と。「何がアドバルーンじゃ」と私。中が何か言いかけた。みかねた佐伯が「これはね、殿谷君と私が個人的な契約でやっているんだよ。君(中)が出てくる必要は何もないんだよ」と言った。これは、中を宥めるというより、叱責だった。
 学生の前で、学部長も務める少壮教授を叱責するというのは、ちょっと出来るものではない。佐伯も中という実力のある学者だからこそ、叱ったのかも知れない。そういえば、生協靴部事件で、学生と対峙していた中は、団体交渉中の学長が、車で逃げ出し、学生をはねそうになったことがあったとき、恩師の植田重正に、その場にいて呆然としていた中は、それは、刑法を専門とするものの態度か、と叱られたことがあって、それが、当局の弱腰になるきっかけになったという噂がまことのように言われたことがある。中は、この叱責で、佐伯には勿論私にも含むところをもった跡はない。おそらく、中は、植田にも佐伯にも、率直な指導を受け続けてきて、そうして、中はそのようにして、消極的構成要件説と言われる新しい学風として認知されるに至っていたのであろう。植田に叱られたという噂も実際に真情溢れる子弟の両者の関係が、そのように見られたのだろう。
 刑法学者として、意欲もあり、評価もされていた中は、直接叱責してくれる恩師にも恵まれていたのである。
 そういえば、当時の法学部のスタッフは、むきになって学生にも怒っていた。そこには真情があった。下手な芝居など必要もなかった。
 「どうしてたんや」と当時の私に声をかけた商法教授の岩本慧に、隣にいた1・2年生の大柄な学生が、おもわず、覆面のまま、何か言った。ふだんは温厚この上ない岩本が突然、真っ赤になって叫んだ。「おまえぇ!覆面とれぇ!」と手を伸ばした。このときの岩本は心底怒っていた。気持ちが通じていると思っていた学生に覆面のまま話しかけられるなど、岩本にとって屈辱以外の何ものでもなかったのだろう。このときの岩本の心情に思いを馳せると今も胸があつくなる。関大の法学部のスタッフは、学問がすきで、学生がすきで、学生と気分を共有しているという気持ちのよさが堪らなかった。そのことでは、先の中(なか)と佐伯との関係のように、そして、佐伯が私に接してくれたように、学部も、大学も越えた、厳しいことさえ言える交流になるのである。独文科の助教授たちも、法学部教授たちを敬愛していた。ドイツから法学部が招聘した教授の接待に献身的だったのも、このような真情からの交流があったからである。
 弁護士としての佐伯千仞の事務所は、弁護士事務所のテナントが多い文化財のように古い大江ビルにあり、何回か遊びに行って、激励された。期待には応えていないが、感謝の思いは、かたちを変えても表現したい。
 かつて、学問と学生が好きだった関大法学部教授会が存在していたころのことである。


二 角田猛之『戦後日本の〈法文化の探求〉―法文化学構築にむけて―』(関西大学出版部2010)の問題 その一
 
 母校の関西大学出版部から、法学系の出版があった。〈法文化の探求〉とある。
 正直言って、最初から問題の多い叙述である。「はじめに」の「1.法の3要素と『法規範・体系』・『法実態・秩序』」の叙述をみる。

   まず「法規範・体系」とは制定法と判例法を中心とする個々の実定法とその総体としての法体系である。それは「狭義の
法」たる「法律」として明確な文章であらわされた「書かれた法」(Law in Books)であり、また上で指摘したように、
法学全体の主たる対象であるとともに伝統的な法解釈学の中核を占めている。(p.4)

 おそらく、角田が、ここで「判例法」と言っているのは、日本のとくに最高裁判決例のことを言っているのであって、本来の判例ないしは判例法のことを言っているのではないと思われる。そのような用語の特別の用法を学問的叙述で何の注釈も無く使用したら、意味が通らなくなることを知らなければならない。角田が平気でかかる叙述をしているのは、角田が判例法のことを基本的に理解していないということになる。「個々の実定法とその総体としての法体系」という表現は、角田が無理解である一つの証左である。
 角田は、そのあと、次のように叙述する

たとえば、刑法の堕胎罪(212条「妊娠中の女子が薬物を用い、又はその他の方法により、堕胎したときは、1年以下の懲役に   処する」)の規定と母体保護法による人工妊娠中絶の「自由化」、わいせつ物に関する規定(175条「わいせつな文書、図画そ   の他の物を頒布し、……2年以下の懲役……」)と社会実態としての「裏にまわっての」わいせつ物の氾濫。また特別法として   は、例えば売春防止法(3条(「売春の禁止」)「何人も、売春をし、又はその相手方となってはならない」)の規定、と同じく「裏」にまわっての売春の実態、あるいは道路交通法の規定、例えば最高速度=速度制限(22条)と道路で運行状況、等々。 まさに「タテマエ」としての法と「ホンネ」としての社会実態の乖離の実例は、日本社会に独特のタテマエ・ホンネの使い分け=ほんとう(=法的に)はダメだけれど、まぁイイだろう」式の発想と行動様式がしばしばみられる日本社会においては枚挙にいとまがない。(p.5)

 法的にダメなものは、不法であり、違法である。角田は何を根拠に「イイだろう」式など言っているのかと思うと、2001年に自分が出版した法哲学の教科書らしい。手製の根拠をもとに話を作るのは、「違法な」ことをしていた検事を思い出す。「イイだろう」って、絶対に良くはないぞ。角田は、逮捕され刑を科され、反則金を課され、その他、種々の処分を受けている「実態」を知らないのか。あるいは、自分が「不法」「違法」をしているけど、「イイだろう」となっている「実態」に確信があるのか。
 角田は何を言いたいのか、日本は不法社会、違法社会だと言いたいのか。それとも、「不法もこれまた法だ」と言いたいのか。
 300頁の本書の本の数頁で、酷い叙述に徐々に憤りが沸いてくる。まだ、「はじめに」の、それも「1」においてである。
 こんなことが、関西大学法学部の講義にあるのか。後輩である法学部学生の不利益はいかほどになるのか。さらにおどろくのは、角田は、次のようなことを書いている。

そしてこのような意味における法秩序は、オイゲン・エールリッヒ(Eugen Ehrlich: 1862-1922)の「生ける法」(Lebendes     Recht)と一定の重なりを有している。(p.5)

 どこまで、とんでもないことを言い続けるのか。エールリッヒが、どこで、不法・違法を「生ける法」などと言っているのか、エールリッヒにとって、成文法でなかろうと(もちろん成文法でも)人々が実践している行為「規範」を言っているのである。
 角田は、どこまで、悲惨な話を続けるつもになのだろうか。
 どうも角田は、法とか法律についての基礎的な学習が欠落しているようである