関西大学カイザースか?改めて関西大学文学部(西洋史)教授芝井敬司などの感覚を気にする

 先に、「関大カイザーズ」と書いたが、「関西大学カイザース」と表記するようである。文学部(西洋史)教授の芝井敬司のことが気になっている。というのは、芝井は、2009年の野球部員3名の恐喝未遂事件に関連して副学長として記者会見をしている。つまり、野球部のみならず体育会の現状について、教学の中枢を担う者として反省している。
 体育会の教育を問題にする文学部教員が「カイザース」などというチーム名に全然気にならないようでは、基礎的な知識とか教養からして、おかしいのではないか。体育会の問題ではなく、教員の問題なのじゃないか。フィギャア・スケートの織田信成が、飲酒して、バイクに乗っていて捕まった。この幼稚な男を入学させたのも問題だが、酒をまさか1人で飲んでんでいたのではないだろう。教員もいたはずだ。西洋史の教授芝井は、『ローマ帝国衰亡史』の著者であるエドワード・ギボンに関する研究をしているそうである。古代ローマといえば、新約聖書には「カエサル(カイザー)のものはカエサルに」とある、世俗のことは、世俗の帝王が行うというのである。主たる神は唯一である。対する世俗の支配者を理論的に単数で言っている筈である。
 関西大学アメリカンフットボールチームは、第2回甲子園ボウルに優勝した名門である。それが「カイザース」など言っていたか。
 どれくらい前のことになるか、ドイツ文学の教授故小川悟は、学生部長のときアメリカン・フットボールのコーチか監督である大津と仲良しだったようだ。あのときは、弱かったから、チーム名も言わなかったのか。「カイザース」なんて言っていたら、小川も注意していたことだろう。あのころは、とにかく弱かった。弱いくせにちゃらちゃらしていた。ちゃらちゃらしていたから弱かったのか、弱いからちゃらちゃらか、おそらく両方だろう(弱くなったギャングスターズも不名誉な事件の被告を出した)。そのころ、京大に90点以上の差で負けたことがある。ところが、京大ギャングスターズはチーム全員が坊主頭に刈りあげた。水野に、関大相手に100点差できなかったら坊主だと言われたのだ。そのため関大は屈辱的な大敗を喫することになった。さらに屈辱的なのは、その大勝には不満足で、情けないと大敗した関大ではなく大勝した筈の京大のチームが坊主頭になってしまったのだ。
 まさに、屈辱の歴史の1頁だが、負けることはある、大敗することもある。しかし「カイザース」など、アホを看板にしているようなものである。関大教員の恥である。体育会学生が、破廉恥なことで新聞ネタになるのには、理由があるのである。
 それ以上に気になるのは、「カイザース」など目の前で名乗っているのを平気でみている西洋史教授の歴史学の程度である。芝井敬司は、「グローバリゼーションの歴史学」という文を書いている。その「4 おわりに」に、

グローバリゼーションを、20世紀の終わりになって、新規に歴史の舞台に登場した配役として理解する限り、われわれは、グローバリズムを一方的に称揚するか、あるいはグローバリズム反グローバリズムの対立の中でいずれかに味方するしか、議論の立脚点を見出すことはできないであろう。そうしたある種イデオロギー的な二項対立を克復して、グローバリゼーションやグローバリズムを歴史的観点から捉えなおしてみることが、グローバリズムをめぐって現代世界に生じている政治的・社会的対立を越えて、進行しつつあるグローバリゼーションを理解する冷静な判断力を形成することになるだろう。[平成14年度〜平成17年度科学研究費補助金(基盤研究(A))「研究成果報告書」]

と述べる。そうだとするならば、「グローバリゼーション」とか、「グローバリズム」か、一般化するのはやめないか。もっと具体的に、はっきりと支配とか収奪の問題で語れないか。「進行しつつあるグローバリゼーション」などと、はっきりしないものを自分で謎かけして、それを「理解する」のが、芝井たちの課題か。助成金を獲得するお題か。
 具体的な勢力ネットワークや利益ネットワークの伸張を、グローバリゼーションと呼んでもよい。多国籍企業の増加も、「グローバリゼーション」ではあるだろう。しかし、「グローバリズム」として問題にし、批難や攻撃の対象にするのは、例えば、関下が書いている「覇権国アメリカの事大化」だろう。歴史家なら、それぞれ条件が違う、一般化などできないということは、最初に学生に言っている筈だ。最初に、霞か雲のような「進行するグローバリズム」を投げかけて、それをみんなで理解しあうのかい。
 実体とか、輪郭のはっきりしたものを対象として、理解や分析するのはよい。いろんなものに一般化するために投げかけられたものは、それは、観念的にもがくことにしかならないのは、少しでも歴史学を修めたものなら判る筈だ。芝井はそれを自覚せずに、西洋史の教授をしているのか。
 「カイザース」のような命名が平気では、研究も教育も期待できない。浜本隆志が、年史編纂室紀要№21に、理事長も務めたことのある宮島綱男は、フランス語教員の学力チェックは非常に厳しかったことを書いている。芝井は、学長資格どころか教授資格は大丈夫か。
 尤も、この補助金請求のための研究のお題そのものが、答えを自分で用意していた「お題」なら、補助金申請の書類くらいは書けるのだろう。