関西大学芝井敬司たちのグローバリズム研究(科学研究費補助金(基盤研究A)研究成果報告書|| 平成14-17年度//a )と関西大学のマイノリティ研究(『アジアのマイノリティと法Ⅰ・Ⅱ』関西大学法学研究所研究叢書34・36)の問題……………母校関西大學を憂う番外

1.芝井敬司は、自らの文がナンセンスなのを省みているか。
 先に芝井敬司がグローバリズム研究と称しているものがナンセンスだと言ったのは、芝井自身ががなぜ「グローバリズム」を問題にするのかが全く明確でないということである。「グローバリズムには、歴史的に諸様相ある」と言うのでは、それは学生のレポートにもならない。芝井のゼミ生がそんなレポートを書いてきたら、指導教員としたら、なぜグローバリズムを問題にするのか、そこにどんな問題があるから、リサーチしようとしたのかなどコメントしないか。ひょっとしたら、大学教員らしい指導など放棄しているのだろうか。だから、「歴史的に諸様相ある」みたいなことを臆面もなく活字にして報告しているのか(『科学研究費補助金(基盤研究A)研究成果報告書』|| 平成14-17年度//a )。
 先の文(9/30)では、少し分かり難かったかも知れないので、もう少し具体的に言ってみた。研究者・教育者としては、その理解は必須のことであるということが判らないと、ことは深刻である。

2.吉田徳夫の「はしがき」(『アジアのマイノリティと法Ⅰ』関西大学法学研究所研究叢書第34冊、2006)の問題
 ところが、同じ頃、関西大学の別の場所でも、同様の文があったのである。吉田は「マイノリティそのものにも定義が無いように、アジアにも定義がない」と、その著作物の趣旨を語るべき「はしがき」で述べる。吉田は、あるいは、定義ということばの使い方を知らないのか。 吉田は、「マイノリティ」がどうして問題になったか、全く判らないのだろう。吉田は、マイノリティ問題とは何か、判らないまま「マイノリティ研究班主幹」になり、「はしがき」を書いている。さきの芝井敬司のレポートは「科学研究費補助金」のための報告書だったようで、それは国民の税から出される金だ。まさしく税金どろぼうだ。たしかに共同研究者のなかには、研究者としての自己を賭して取り組んだ成果もあるかもしれない。しかし、少なくとも芝井敬司のはなっていない。
 同様に、というか、それ以上に、吉田のはしがきは、自分が、マイノリティ問題の趣旨を理解していないことを隠そうともしない。
 前にも触れたことがあるが、あらゆる問題がそうであるが、とくにマイノリティの問題は、切実な問題が先行しているのである。そういう現実が先行している問題に、鈍感に「研究」などとおっとり構えていること自体、現実に格闘している人々に失礼であり愚鈍であり、そして傲慢なのである。運動の障害物である。

3.吉田徳夫「マイノリティ問題としての部落問題の歴史(『アジアのマイノリティと法Ⅱ』第6章」
 吉田は、いよいよ大惚けである。吉田徳夫は、部落問題を担当するスタッフではなかったのか。被差別部落をマイノリティなどとしたら、いよいよ部落を固定されたもの考えることになるではないか。吉田もけんめいに、部落ははっきり固定していないみたいなことを書いている。そしたら、どうしてマイノリティの問題に部落のことを書くのか。マイノリティの運動に全く無理解なだけか。無理解なものが、判ったかのように、知識人顔して何かを書くことがマイノリティの運動に対してどのようなネガティブな効果を及ぼすか判らないのか。
 吉田が、部落問題もマイノリティ問題にも無理解であるとしか言いようが無いことはかなりはっきりしてきた。吉田が、このように無理解なことを言うのは、単に吉田が知らないとか、アホだからで放っておいてよいことではないのである。マイノリティの運動にも、部落解放運動にも、大きく妨げになるからである。
 このような無知なことを言うのは、実は吉田に限ったことではない。本ブログでは、既に2010・2・01に、絓秀実が「マイノリティによる対抗運動」などと無知なことを書いていることを問題にした。絓は、単なる無知だが、吉田はそれだけでは済まされないだろう。
 孝忠延夫も、当然ながら、1992年12月採択の「民族的もしくは種族的、宗教的及び言語的マイノリティに属する者の権利宣言」に言及している(『アジアのマイノリティと法Ⅰ』p.10-11)。その第1条に何とあるか。「国家は、自国領域内のマイノリティの存在及びその民族的もしくは種族的、文化的、宗教的及び言語的アイデンティティを保護し、そのアイデンティティ伸長のための条件づくりを奨励しなくてはならない」とある。
 これで、少しは判ってもらわないと困る。マイノリティは、自己の存在を肯定し、アイデンティティを伸張しようというのである。被差別部落は、差別される合理的理由など何もないことを主張しているのである。差別されることを否定しているのである。差別されることをどうして肯定などしたいものか。差別を、合理的根拠のない差別を摘発しているのである。
 吉田は、如何に自らが如何に蒙昧な言辞を発していたかを反省し、その理由を自己切開しなければならない。

4.本当に反省などできるのか。
 これほどまで伝えても、というか、伝えなければならない状態ということは、おそらく自ら自覚することはないであろう。おそらく状況は、もっと深刻であると思う。以上の2件は、助成金のための報告書や、研究所の「研究叢書」の類の文である。部外者が読むことを想定している文がこの有様である。
 確かに、状況は絶望的であるけれども、これらの研究や教育、解放のための障害物を放っておくわけにはいかないだろう。