角田猛之『戦後日本の〈法文化の探求〉―法文化学構築にむけて―』(関西大学出版部2010)の問題   その4 ――母校関西大学とりわけ法学部を思う④

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 角田の法文化学なるもの、もとはといえば、1983年に大阪大学法学部が田中茂樹を採用して法社会学といわず、比較法文化論という講座名のものが発足したことにも一つの契機はあるだろう。1974年に阿部謹也が『ハーメルンの笛吹き男 : 伝説とその世界』、1978年に網野善彦が『無縁・公界・楽』を刊行し、さらに、日本中世史では、笠松宏至が、日本中世の訴訟などを扱った著作を刊行した。フランスの社会史ブームなどとも連動し、いままでの文献資料だけでは知り得なかった人類のより豊かな歴史が掘り起こされるかと話題になっていたころである。網野にすれば、戦後の教条主義的な状態からより豊かな民衆像を描けないかということから、話題になったようなタイトルになった。そのような、政治的教条主義から解放された歴史学を、というような思いが、どこかで、ドクマーティクから解放された法学をという阪大法哲学教授矢崎光圀の思いを刺激したのかもしれない。矢崎のそのような思いは、おおむね、よい効果をあげていない。
 そのような、田中茂樹からもう一つ下の世代が、角田で、その結果がマルチ・リーガル・カルチャーである。
 角田のこの著書が、最初から、「日本の法文化というのは不法文化」、ないしは「無法の法文化」のような主張がなされているのは、しかも、それが、なにか主張のようなつもりで書かれているのは、この、矢崎が本来目論んだことと、案に相違して、とんでもない帰結をもってしまったことの一つである。このようなことを、つまり、日本は堕胎し放題ですよ、売春の国ですよ、などと外国でも放言しているとしたら、不意に聞いた日本人は、にわかに沸き上がる愛国の情を止めがたくなるであろう。関西大学法学部はなんという教員を雇っていると思われるだろう。
 それ以前に、そのような授業をうけ、単位認定の試験をうけている学生の実質被害は、つまり脳被害はいかなるものかと思うので、なんどか、この角田著に言及した。
 もう、いうべきことは言った、つまり、一応の自分に課した責任は果たした、と思ったが、これは、角田一人がやっていることでもないことに気が付いた。

(2)
 角田の一人芝居でもないのは、つまり、もう少し問題が深刻であると気が付いたのは、角田が何年か前に海上保安大学校で講演をしていることである。「ストップ人身売買」のポスターには海上保安庁も名を連ねている。角田は、日本は「まぁイイだろう」式の売春王国ですよ、みたいなことを書いているのである。角田を呼んだのも、おそらく多元法文化主義者なのだろう。海の治安を担当する職員を養成する上級学校の教員が、近隣諸国の事情を知らないのは困るが、「お前の方はお前の法、俺の方は俺の法」では困ると思うのだが、どういうわけか、角田の盟友がいるのだろう。
 それ以上に、角田の著書でよく登場するのが故千葉正士である。角田の主張を詳しくフォローする気は無いが、ヤクザ集団を、国家法を否定する、厳格な自律集団などと、いくら愚鈍な学生もしない間違いを書いてとくとくとしているが、これには、「違法な職業の社会的公認」(『法文化のフロンティア』誠文堂1991)などと言っている千葉正士という先輩がいたのだ。現実に違法な行為が、咎めをうけない場合がある。しかし、それは、良いことではないのである。それは、なんらかの脱法があるか、制度の欠陥ということに過ぎない。だから、よいということではない。
 少しみると、実は、角田の本書の構想は、千葉のこの『法文化のフロンティア』にほとんど拠っていることがわかる。
 問題は、千葉の著書論文が、とても面白くなく、分かり難いことである。タイトルは刺激的である。「違法な職業の社会的公認」である。ヤクザの日本、みたいである。角田は、すぐ悪のりする。ところが、千葉は、違法な職業が社会的に公認されているとは一つも書いていない。違法な職業の名前(名詞)がある、程度のことである。よくいわれる○○師とか××屋の類である。それで、分類しかけたようなふりをしてまるっきり詐欺「師」である。そのこすっからい千葉にのせられて長年踊らされてきたのであるが、踊っている角田は楽しんでいるが、周囲ははた迷惑である。
 千葉がひどいのは、「違法」をタイトルに掲げながら、「違法」の義を相対化しているのである(例えばp.66-7)。法律学の世界に長年いて、沢山の文を書いて、「違法」の義がわからない、もしくは、普通なら言い得ないことだが、分からない振りをして、つまり死んだ振りしているのか、全く分からない。いずれにしても許されることではない。
 もし、角田に償いの気持ちが少しでもあるのなら、この千葉の出鱈目な態度を徹底的に糾弾することくらいか。

(3)
 かかる欠陥思考は、アジア法のアイデンティティとか、マルチ・リーガル・カルチャーのとんでもない帰結を呼び出すことになりかねない。角田は、以下のようなこと言えるほどの調査を行えず、考察できるわけもないが、アイデンティティ法原理とか、マルチ・リーガル・カルチャーなるものがどういう発想に適合的なのか、つまり、「学匪」たるものになり得るのか指摘しておこう。
 千葉に「アイデンティティ法原理―法文化の基礎的前提」なるものがある。こんなものあるわけないので、千葉は、紹介するのもはずかしいことを書いて誤魔化している。アイデンティティ法原理などといって、何か調査したのか、調査報告にでも触れたか。千葉自身、もともとそのようなアイデンティティ法原理なるものにどれほど関心があるのか分からない。
 そことで、気になることというのは次のようなことである。例えば、台湾原住民のクビ狩り族伝承である。発掘された白骨化した頭蓋骨の写真とか、切断されたクビの写真もある。しかし、日本が占領した1895年以降、多くの戦争があり、親日派と独立派の台湾人同士の戦争もあったわけである。クビ狩りという、儀礼や風習があった証拠には全くならない。むしろ逆である。個々の儀礼の結果などではなく、明らかに戦争のあとと考えられるからである。クビ狩りの儀礼の内容も意義も全く伝わっていないのである。
 しかし、多くの人が、クビ狩りがあったと言い、タイヤル族の人、アミ族の人が、板に釘を打ち付け針金を撒いて鞘をつくった「蛮刀」を掲げ、自分たちの先祖は、これでクビ狩りをしたのだと言うのである。
 何のために?それは成人儀礼だと言う。誰を襲う、他所の人だと言う。それじゃあ、戦争になる可能性もあるだろう。
 おそらく、侵入者に対する対応の一つの現れなのだろう。クビ狩りと言う以上、相手は「人」であることを認識しているわけであるから、それは殺人である。まさに違法行為、犯罪である。マルチ・リーガル・カルチャーによれば、そういうこともあってもよい、というのである。殺人が儀式としてあってもよい、というのである。本当の証拠は(刀―近代のもの、伝聞の証言、写真などは多くある)一つもないのである。
 マルチ・リーガル・カルチャー論者は、このような殺人儀礼をもっていた集団という偏見を増幅していっているのである。
 そういえば、何年か前に亡くなった京大名誉教授福井勝義も、実質、マルチ・リーガル・カルチャー論者であった。というのは、アフリカのス-ダン南部ナ-リム族の例として、牧畜社会における家畜略奪が、富の平準化システムになっている、という分かり難いことをとくとくと書いていた。牧畜社会で家畜略奪は、最重罪である。そのような犯罪は頻発するということは、頻発でもなくてもよい、発生することは、もうそれは社会としては、壊れているのだが、福井は、強盗が富を平準化するシステムだと言う。つまり、強盗が法だと、訳のわからない話である。実は、それはアフリカに対する偏見を強化するだけなのだ。そういえば、福井は、殺人儀礼のことも書いていた。
 今、亡くなった福井の業績をチェックしようとしたら、どうやら、そうした多くの、いわばマルチ・リーガル・カルチャーもどきの偏見増長の文は、リストからは整理されたようで、農学研究の一端としておこなったアフリカの植生の研究と色彩に関するものがほとんどだった。
 これは、当方のチェック能力の問題で、実は出てくるのかもしれない。出て来たら、読んでみて、いかにマルチ・リーガル・カルチャーは危ないものかを認識してもらいたいところである。