市川訓敏「追悼 石尾芳久先生を偲ぶ」『比較法史学会会報 第3号』(比較法史学会1993.12) / 吉田徳夫 「石尾芳久先生の死を悼む」(『部落解放闘争8号』(部落解放理論センター1993.2) ――母校関西大学とりわけ法学部を思う⑥

(1)
 先に言及した角田の関西大学出版部刊の著書は、関西大学法学部の卒業生としては、あり得ない低劣なものであった。かつての法学部であれば、決して「あり得ない」ものだったからである。
 1969年に法学部教授会、文学部教授会によって不信任された歴史的な学長中谷敬寿門下のこれまた、決して評判がよいとは言えなかった桜田・森・沢田にしても、神権天皇制など想像もしなかったであろう。天皇機関説だったと言っていた。この点、やはり、佐々木惣一門下で、後に大阪最初の革新府政を実現した黒田了一も政治的立場は違え共通するところであった。
 法学部の衰退は、奇妙なことに基礎法で顕著である。実定法は、まだ実務との接点が少しでも衰退にっとって抵抗になるからかも知れない。しかし、そもそも基礎法は、視野の広さや、理論的認識において、認識の基礎を構成する学問の筈である。角田の凄まじい著書と、その凄まじさを支える、関西大学法学部、とくに、その基礎法は一体どんな状態なのだろうか。
 上記の二つの関西大学法学部のスタッフによる石尾芳久を追悼する文は、「石尾芳久WEBPAGE」を見て知った。掲載している2つの雑誌は、図書館などで、簡単にみることができないものである。なんと、もう20年ほど前のものである。20年前にもうかかる状態だったのか、と今更ながらに思うのである。

(2)
 市川は、上掲「追悼 石尾芳久先生を偲ぶ」(『比較法史学会会報 第3号』1993)で、次のように述べている。 

石尾先生は、ウェーバーの著作は、ほとんど暗記するほど、反復して読みかえされ、また、トレルチやデュルケームなど
ウェーバーと関係の深い研究者や研究領域についても関心を持ち続けておられたし、ベンディックスやモムゼン、あるい
大塚久雄や内田芳明氏などのウェーバー解釈についても批判的に吟味を重ねておられた。

 たしかに、『法社会学』や『国家社会学』の訳本を刊行するには、相当の読み込みがなされないとできることではない。しかし、「ウェーバーの著作は、ほとんど暗記するほど、反復して読みかえされ」は、言い過ぎである。確かに、たとえば『儒教道教』のいくつかある邦訳書については、正確さ、表現、それぞれ一長一短を述べることで適切な指摘もあった。しかし、ウェーバー学者と言われるのを嫌ったというのは、自分は、ウェーバー法社会学や支配の社会学について、そこそこ知っているだけで、世良晃志郎ほどの専門家でもない、という謙虚な気持ちから出たものである。だからこそ、自分のウェーバー解釈として『マックス・ウェーバー法社会学』(法律文化社 1971)を世に問うたのである(この著書は、どういうわけか関西大学図書館で検索できない)。
 当然ながら、安藤英治が訳した『音楽社会学』はもちろんのこと、若きウェーバーが精魂込めて世に送った実証的な論文である『中世商事会社史』や『ローマ農業史』は、邦訳書もないのである。
 市川は自分の師をどれほど理解しているのか、訝しむところである。
 吉田徳夫の追悼文も『部落解放闘争8号』(部落解放理論センター1993.2)に「石尾芳久先生の死を悼む」として載っている。

また、先生は日本におけるマックス・ウェーバーの最初の研究者てあり、『法社会学』・『国家社会学』の翻訳を手掛けながら、マックス・ウェーバーを自らの師と仰いでおられた。先生のウェーバー観は『ウェーバー 支配の社会学』のなかに披瀝されている

 「先生は日本におけるマックス・ウェーバーの最初の研究者」というのはひどい。吉田は、大学図書館に行ったことがないのだろうか。日本人によるウェーバー研究の棚がどれほど続くのか見たことがないのだろうか。マックス・ウェーバーといえば、「プロ倫」あるいは「倫理論文」を想起する大塚久雄や『一般社会経済史要論』の邦訳者として黒正巌の名前もみたことがないのだろうか。石尾芳久は、これらには目を通して育っている筈である。
 市川の文には、芝居じみた大袈裟な振りを感じてしまうが、吉田の口走る、石尾が「日本におけるマックス・ウェーバーの最初の研究者」というのは、吉田の単なる無知に基づいたものであろう。
 吉田は「先生のウェーバー観は『ウェーバー 支配の社会学』のなかに披瀝されている」とするが、それは、有斐閣新書の共著のことを言っているのであろう。この本には共著者との共通理解が得られなかったことも書かれており、その意味では興味なしとはしないが、それぞれ、思惑も意欲も異なったものである。ウェーバー理解というのなら、1971年の『マックス・ウェーバー法社会学』を挙げないと師への礼を失することになるだろう。
 尤も吉田には、この有斐閣新書程度の理解が怪しいところがある。
 先に単なる無知といった。これは、市川の思わせぶりな芝居風表現に比して、不快度が少ないと言ったまでのことであって、大学のスタッフとしては、無知は、不徳の代表的なものである。法学部の教員たるべき資格が不問にされるということではないのである。
 角田が愚かな著書を刊行し、講義で愚かな言辞を頻発することが問題であるのと同様の問題が、この愚かしい追悼文にはあるというのである。
 問題は、かかる恥ずかしい文に対して、何の羞恥心も、自省もなされず、恥が曝されたままであることである。
 斯様な知識で、どのような教育が可能になるのか。しかし、実際に懸命の学習は、その人を成長させることも事実である。しかし、稚拙な文がそのままになって恥ずかしくも何もないのは、どう考えても危ない。角田をめぐる互助会としか思えない。
 市川や吉田は、自分たちの師である石尾芳久についての理解も非常にあいまいなまま、ここ20年何をしてきたのだろう。法学部の教壇において何かを講ずることができるとはとても思えない。
 「石尾芳久WEBPAGE」の編集者が、本当に石尾芳久を顕彰していくつもりなら、この二つの追悼文は、即刻削られるべきであると思う。石尾芳久の晩年は、決して恥少なしとは言えず残念であった。しかし、死後に至っても、門下生と称する者の不細工な文のために恥を更に付く加えることはないだろう。

(3)
 さきの市川の追悼文に、次のような箇所がある。

石母田正氏が後に自己批判された、同氏の「古代貴族の英雄時代」などに共感をもたれながら、古代法の本質に対する確信を深められていった。

 明らかに、変なフレーズが挟まっている。「石母田正氏が後に自己批判された、同氏の『古代貴族の英雄時代』…」とある。
 石母田正は、一体どこで、どのような自己批判をしたと市川は言っているのか。脈絡もなく唐突に、石母田正という、当時の日本を代表する歴史家の自己批判なることを挿入する。市川は、言葉について軽いのだろうか。おそらく、自己批判についてのイメージの重さは認知していると思う。認知していて、分かっているから根拠も示さず、そっと入れるのである。その石母田が自己批判した文に、市川の師の石尾は共感したというのか。
 全く意味の通らない文である。市川にすれば、意味など通らなくてもよい。石母田に対して、泥をぶつけておけばよいと言わんばかりである。
 実は、小熊英二『「民主」と「愛国」:戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社, 2002)に、いくつか石母田の自己批判が出てくる。国民的歴史学運動を主導した石母田は、知識人が農村にもっていた偏見から、運動を、生活者の意識から離れたものにしたという自己批判をしたことを紹介している。また、「石母田さんは、国民的歴史運動が終焉したあと、私に面とむかって『網野君、悪かった』といってくれた唯一の歴史家なのです。」という網野善彦の回想を紹介している。これらの自己批判は、研究者として、知識人として、石母田の誠実さを物語るものでしかない。網野善彦という生身の人物と研究とは、一体として存在するが、それは石母田についても言えることなのだろう。小熊の著書の石母田の自己批判は、そんな信頼できる歴史家を物語るエピソードとして描かれている。
 市川が、不用意に挿入した「石母田の自己批判」は、何なのだろう。訳も無く、人を誹謗するものでしかない。
 石母田正が、市川の恩師石尾芳久にとっていかなる人であったか。石尾は、『法学論集』に書き綴った日本古代の法制史についての論文を、『日本古代法の研究』として1959年上梓したが、同年配の同学の牧英正による書評(『ヒストリア』26)はあったものの、ほぼ無視された状態であった。ところが、石母田が『歴史学研究』229などを経て、1962年10月、岩波講座『日本歴史』4に執筆した「古代法」において、尤も注目すべき論考として石尾の「天津罪国津罪論考」「神判と法の発見」「古代日本の刑罰体系」をあげた。これが、多くの人々を石尾芳久に注目させることになった。いわば石母田は、市川の恩師石尾芳久にとっては恩人である。
この恩師の恩人を、市川は、意味不明の「自己批判」を挿むことによって貶めているのである。
 この、不明な姑息な誹謗は、暗くて不快である。書いたものでさえ、このように、こっそりとささやくように挿まれるのであれば、言葉では、どのような讒言が行われているか、と思ってしまうではないか。本人は、無自覚を装っているが、実はその分悪辣である。
 恩師の追悼に際してさえ、かかる小汚い手法が為されているのである。この文の背後に見え隠れするのは、実際のぼそぼそとした言辞による、讒言、誹謗、中傷による立場の弱い人への陰湿な攻撃すら想起される。攻撃する側は、何を思っているか分からないが、攻撃され者は、人生をも危うくされたことが充分推測される。
 だいたい、このような、訳のわからん、下心充満の文、あるいは無知丸出しの文、およそ、法学部で講義する人のものとは言えない。このような文しか書けない者は、およそ文を書かなければならない立場からは、一切身を退く覚悟をして貰わなければならない。自分が何を書いているのか全く自覚がないことになるからである。
 母校である関西大学法学部は、角田猛之の関大出版部発行の著書から、察するに相当ひどい情況なのではないかと思ったのである。ところが、既に、20年前に、かかる腐臭をたてている文があった。これでは学問などしようがないだろう。部落解放などおこがましいと思った。腐臭がするというのは、それ以前に腐敗していたからである。