四方田犬彦『ハイスクール1968』から(続)

 四方田犬彦『ハイスクール1968』は、もう結構だと思っていたが、雑誌連載時に、クレーム続出の曰く付きと聞いた。その尻馬に乗るわけではないが、当初に感じたことを、もう少し書いておこうと思った。
 庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』のおさまった主人公よりも、四方田のうじうじした姿は、遙かに芥川賞作品よりもリアリティがあった。しかも、四方田の知的資質もあり、時期を隔てて書いていることから、逆に、当時の文化状況の叙述も見事である。
 ところが、前にも書いたとおり、その叙述に亀裂がはしる。「旧日本軍の栄光」とか「同志愛」など、普通にはとても考えられないことを、常識のように書いている。「南京の虐殺」は、米英に宣戦布告する(1941)前の1937年のことである。この、宣戦布告すらしていない軍隊は、食糧さえ十分にもっていないのである。食糧でさえ略奪強奪を前提とした下劣な軍隊に、「栄光」などどうしても結びつかないのである。そのような、強奪奴隷軍にどうして「同志愛」が生まれるのか、「戦友」という言葉は聞く。悲しい響きである。
 四方田が、これだけの学識がありながら、どうして、映画史なのか、不審だった。
 私は、19歳か20歳のころの友人が、『無理心中日本の夏』撮影中の大島渚に「若い時から映画に凝るのは止めた方が良い」と諭されたという話しを聞いたことがある。うんと意訳すると、いわば映画は額縁の絵だというわけである。そのとき、大島は若いときには、現実をもっとみる勉強をしないといけない。映画はかなり狭い。文学の方がまだましだ、という意味のことを言ったようである。
 四方田は、映画監督が編集して、数時間で見ることができるように纏められた世界を扱うようなことしか出来ないことになってしまった、あるいは、その程度の資質だったのかと思う。
 それに、よく出来たおぼっちゃま特有の身勝手が出まくっているということだろう。鈴木昌が、「大法螺吹きの四方田」と書いているが、それほどの「法螺」とも思えない。近くにいる、あるいは、近くにいた者にとっては、目立ちたがりというのは不愉快だろうが、関係のないものにとっては、それは法螺か、と思う程度である。
 四方田の「1968」に出てくる1969年12月の教育大付属駒場バリケード事件は、実際には、非日常的な出来事だと、四方田がわくわくした「お泊まり会」への期待が、四方田がお弁当をこしらえて駆けつけたら、もう嘘のように終わっていて、悔しくて、石を投げた、という、それだけをとれば、高校生にしては、あまりにも幼稚な情け無い話にすぎない。
 それを、なんだか自己中心的に書かれては、実際に事にあたって、それこそ高校生としては幾多の修羅場をくぐり、周到な準備のもとにやった「釜石」こと、大谷にとってはたまらんことだろう。
 たしかに、何かあれば、ハイエナのように駆けつけて、自分が目立つことに酔いしれるのは、どこにでもいる。四方田がそれと同じだとは思いたくないが、四方田が嫌悪感をもつという「団塊の世代」の人物が、その類のようである。四方田が、合わないと思った一年先輩の「釜石」にも、自分より目立ってテキパキする姿に、「目立ちたがりの自分」を見いだしたのかも知れない。
 実際の運動にとって、このような手合いは、登場してくるものである。一番しんどいときは、消えているが、目立つときに出てくるので、困りものなのである。しかも、それが、入れてくれよ、くらいなら別に構わないが、出てきて目立ちたいというのだから、邪魔でしかない。
 その「邪魔だった」自分の姿が判らずに、やった連中を矮小化するのは、「釜石」にとっては許せないことだろう。四方田の文では、あとからとってつけたように、東京教育大移転をめぐる問題をあげているが、「釜石」こと大谷は、最初から、教育大移転改組の問題があったと述べる。それが、バリケードにまで行く経過は判らない。大谷らの運動に、その展開があったら、四方田につけ込まれることもなかったかとも思う。が、実際のことは判らない。少なくとも、その数日の動きは、「蜂起」にも準じていて、四方田の「お泊まり会」如きに茶化されてはたまったものではない。
 ただ、話が逸れるが、大谷は、1969年のブント7.6事件の赤軍派グループの高校生だったということである。それをキャリアかのことのように思っている節がみられる。7.6事件は、新左翼の70年安保の闘争を台無しにした決定的な事件だった。もっとも、60年代の新左翼の駄目なところが7.6事件ということで噴出したとも言える。長くなるのは止めると、それは、高校生を含む赤軍派グループが、破防法で警察が追っている同盟の議長を暴行して動けなくした上、迫る警察の前に放り出して逃げるという、前代未聞の破廉恥な、何の言い訳もできない反革命事件だったのだ。当時、高校生だった大谷は、よく判らなかったかも知れないが、少なくとも今は、判らないと困る。
 また、あのような事件を引き起こした、あるいはコントロールできなかった塩見とか八木は、政治家の資質をもっと問われるべきであった。いや、問われてはいたが、当の本人の自覚がなかった。
 大谷は、未だに「中大右派」などと言っている。高安斗の委員長までしたというのなら、ブントの活動の多くは、中大全中斗に依拠していたことを知らないことはないだろう。中大全中斗があってこその高安斗だったということが、未だに判らないようでは辛い。
 しかし、四方田『ハイスクール1968』も、当時の文化状況の叙述だけでなく、「釜石」こと大谷の当時のことについての発言を引き出した功績もあるということにしておこう。