内田樹のとんでもない話……極私的関大全共闘史番外①


 関大全共闘だった渡邊君に対するインタビューが目に入った。黒田裕子さんの神戸女学院での修士論文全共闘運動経験者のオーラル・ヒストリー その実践と考察」のものである。phpBB・creating communties、www.tatsuru.com - Seminar「内田ゼミ生によるゼミ生のためのフォーラム」と称するものに掲示してあった。
 渡邊君のインタビュー自体は、プロ学同とフロントが一緒になったりしているが、先ずは妥当な内容のように思う。雰囲気も当時の者としては判る。その時代の人の具体的な話として貴重であるとも思う。それは、渡邊君が自分の父親の話を聞いておきたいと思いながら聞けなかった残念とも重なる。それぞれのインタビューは、それぞれの人のかけがえのない話として、貴重であり、興味深い。
 ただ、4人の話を聞いて、「全共闘運動は一体何だったのか、そのことについて考察をおこなった。」となると、冗談を聞いているような気がする。黒田さんの修士論文ということでアップされている。修士論文としてアップされる以上は、草稿ではないのだから、それなりのチェックが必要である。
 通常は、修士論文なら、チェックするのは、指導教授である内田樹の筈だが、ここでは、本当は、最初にチェックされないといけないのは、内田の言述のようである。
 さきに、4人の話を聞いて、全般的なことを言うことに疑念があることを言った。
 全般的なことを言うのに黒田さんご自身の仰るように4人とは明らかに少ない。しかも4人の基準もはっきりしない。たまたまの知り合いだ。しかし、逆に、話し手が、ただ1人だったとしても、決して、その内容は少なくはない。かけがえのない貴重な話だ。しかし、4人が、それぞれ、異なった場所で、その時代を過ごした人たちである。その時代というのは、全共闘の時代ということになるのだが、4人の話を聞いて、それぞれの青春なり人生なりのことを確かめるのならそれでよいが、それで、「全共闘運動は一体何だったのか」などと、一般的なことにまとめるというのでは、あまりにも素朴(ナイーフ)に過ぎる。
 黒田さんは、全共闘というのは、闘争組織だったということをご存知の筈だ。当時(今もだろうが)、一般には、学生の組織としては、各学部に学生自治会というのがあった。60年安保闘争で、国際語になったといわれる「ZEN‐GA-KU‐REN全学連」は、その自治会の連合だとはご存知の筈である。その自治会とは別に、闘争の際に、全学的な闘争機関をつくりあげることがある。だから、全共闘とは、なんだか何処からか湧き出るものでもなく、感染するヴィールスのようなものでもなく、誰かがおいていった古着でもない。 
 全共闘は、その時々、場所々々のそれ自体個別なものである。そのもともと個別の、しかも、全国に多数あった。そこから、たまたま4人に聞いて、「全共闘とは一体何だったのか」というには、ご自身でも変だと思われるだろう。
 「全共闘運動」という言葉が出てくる。結果として、全共闘という組織が運動を起こしていたから、全共闘の運動つまり全共闘運動という言い方があってもよい。しかし、誰も、全共闘運動をやろうとしたわけではない。そこのところを、黒田さんにはご理解いただきたいところである。
 書きたい主題から外れるが、もう少し言うと、野木の話にも出てくる高校生の動き、これは、全共闘ではなくて、高校生の反戦運動である。そして、野木の話の中心は、70年安保闘争の最大の山場とされた69年の秋、中核派の学生として得た体験である。これはこれとして得難い証言であるが、全共闘の話ではない。早稲田の全共闘の話も出てくるが、これは、その状態を黒田さんに説明しているわけで、それはそれとして早稲田の当時の状況が判る。そこで野木の話にも出てくるように、早稲田で生じた問題のための闘争組織として、文闘連とか九共闘を結成している。一般に「全共闘」というが、単なる全共闘は、一つもない。全て固有のものである。そして固有の闘いをしている。だから、69年9月5日に、全国全共闘結成集会をやっているが、あれは、ほぼ、全国の全共闘が形骸化してしまったことの表現だった。政治的諸党派が、その秋の闘争のために集まる機会としてあったようである。そこでは全共闘(ノン・セクト)の象徴であった銀や黒のヘルメットではなく、各党派を表す、赤・白・青・モヒカンなどのヘルメットが大半だった。
 現在、それぞれの分野で、相応の仕事をなされている人たちの、かけがえのない話を聞くのであるから、そのくらいのことはご存知かとも思っていた。
 これらは、ご本人の勉強の仕方であるが、指導教授の問題である。当たり前のことだが、現実の事象はほんとうに具体的で様々である。その現実の事象には、発見もあり、実証例もある。そのためには、ふつうは、現実の事象にあたる前に相当の準備をする。
 黒田さんは、野木に、なぜこの研究を?と聞かれ、「理解できなかったからです。」と答えている。このような言い方は「じゃあ、他のことは理解できるのというのか?」という突っ込みを招きかねない。野木は親切な人柄のようで(そういえば渡邊や画家も優しい)、解説を加えながら話している。黒田さんの「はじめに」を読むと仕方がないとも思う。他人事ではないのだが、少々ナイーフすぎる。(少々と言って「すぎる」とはおかしいが)私は、或高校で、卒業生が大学のレポートのために、アンケートを恩師に取りに来て、その恩師に質問の仕方を指導されているのを注目したことがある。これも他人事ではない。私自身にも、身に覚えのある拙さである。「よくわからないから」などと言って話を聞かれたら、聞く前に勉強しておくことがあるだろう、と本当は答えるしかない。尤も、黒田さんが「理解できなかった」のは、そのような知識ではなくて、そのときの、そこまでやる「心情」といったものなのかも知れない。しかし、それこそ、言い難いものなので、いろいろ勉強や調査をしてアプローチしてもらうもので、聞いたら答えが出てくるというものではない。黒田さんも、小熊英二の大著を読まれ、小阪修平の話題の本も読まれている。そこで、問題が出て来たり、もう少し、極めてみたい、開いてみたい問題は出てこなかったのだろうか。また、話を聞いていて、今までの認識に対する疑問や訂正が出てこなかったのだろうか。当時の出版物など調査されたのだろうか。

 野木が思ったように、黒田さんのモティーフは、判らない。もし、種々ある動因の一つに、指導教授である内田樹が「全共闘経験者」だから、というのがあれば、これは、もう最初の大きな躓きである。内田樹は、全共闘とは、ほとんど関係はない。ほとんど、というのは、どんなささやかな関係があるかも知れないからである。逆に言えば、内田も全共闘関係者だと言ってみたくなるほどの輝きを「全共闘」はもっていたようでである。1868年には高校生だった四方田犬彦も、全共闘世代であることをアピールしているようである。尤も、多くが四方田のはったりだったことが話題になっている。一方で、当時高校生で、その激動期に「遅れた」四方田自身は、全共闘世代が当時のことを嬉しそうに話すのを聞いて、嫉妬がらみで憎悪するのを隠さない。
 内田は、1970年春の東大入学である。黒田さんの「はじめに」にも、全共闘は、組織的に69年にほぼ解体したとある。当然、内田のときには東大全共闘はない。内田がなにやら活動したのは、駒場らしいが、安田講堂の封鎖が解かれたとき、駒場共闘も籠城を止めた。でてくる駒場共闘の学生を、全国動員の民青の学生たちは、ここぞとばかり報道陣の目の前でリンチにかけた。思いあまって、その外にいた学生がリンチをしている民青を制止にかかって逆に殴打されたという話もある。籠城者に比べれば、全国動員の民青は多勢である。ヘルメットは引きちぎられ、袋だたきにされ無惨なものであった。これが、全共闘駒場共闘の最後である。内田が入学する1年以上前の話である。
 全共闘の時代が非日常というのなら、内田は、いわば、そのマツリの後の間の抜けた(ふつうは「気のぬけた」と言う)ようなところで、ビラ配りしていたわけである。それは、全共闘ではなく、サークル活動に近い。たしかに、全共闘という組織規約があるわけではないが、具体的な闘争がないと、「共闘」にも「全」共闘にならないので、内田は、全共闘のせいぜい余韻を嗅いていたにすぎないと言える。たしかに全共闘のことを語ることは、全共闘の時代の人間の特権だ。だからこそ、四方田や内田のような屈折した奴が出てくる。しかし、全共闘の連中は、それなりに、屈辱や不安のなかで、必死だっただけだ。すると、それなりに必死だったのは、全共闘だけではないだろう。
 1人を除いて3人のインフォーマントもそれぞれ、そのようなことを言っている。黒田さんは、全共闘ということで、何か特別なことがあるかと期待して、結局「一体何だ」とアホなことを言っているように見える。


A 4人のインフォーマントのなかで、内田のつまらないしゃべりが目立つ。黒田さんは「全共闘経験者を対象にした」と言っている。先に言及したように、内田が東大に入学したときには、東大全共闘はもうない。内田は全共闘経験者では「ない」。尤も、「全共闘規約」など無いから、自分が全共闘だ、と言い、内田も、橋本康介の言い方で、全共闘をしていたつもりなのかも知れない。しかし、社会史的な事件や、書名として出てくる「全共闘」とは、全く関係がない。だから、オーラル・ヒストリーなどと言って、内田などが登場したら、全部が怪しくなりかねない。尤も、他の3人は、具体的な話に終始しておられるので、その点は大丈夫なのだが、内田は、嘘から出発しているからであろうか、ひどい話が連続する。ひとつひとつ挙げたいとも思うが、いずれにせよ、つまらない話しなので、少しだけあげておく。いかにも、実際の闘争場面に出たこともない者がつくりあげた話しなのである。
 内田は現実の全共闘には遭遇しなかったから、(24)の、黒田さんの「全共闘とは?」という問に、「言葉にしにくい。日本人の無意識にあるレベルに蟠っていたエネルギーがバカッと出て来たもんだから、非常に言葉にしにくい」とオカルト風に誤魔化している。現実に闘争していたら、「エネルギーがバカッと出て来たり」など、言いたくても言えない。
 嘘といえば、「かつて歓呼の声で山本義隆を支持した東大生たち」とある。黒田さんが、小熊の著書を読まれた印象からでも、おかしいと思うでしょう。
B (2)では、ゲバ棒なんてヘナヘナした物で、そんなものでぶたれたって痛くも痒くもない、ゲバ棒など「極めて象徴的」なものだと書いている。ほんなら、どついたろか、と思う。内田は、本当に、一度もゲバ棒など、触れたことも握ったこともないのだ。内田は、杖道合気道などをやって、武道家だと言っているらしい。いずれも形武道である。私は、武道における形の意義を知らないわけではない。しかし、おそらく武闘などに全く無縁だった者が、少し勤勉に捕手(とりて)の形を習得して自信をつけて、あらぬことを口走るのは痛ましい。確かに、樫かなにかで作られた杖は、扱いやすいだろう。そんなもん持って掛かってこいや、ゲバ棒で一発だ。大学などで、たくさんの樫の棒を押収したことは、渡邊も知っている筈だ。尤もゲバ棒も、使えるやつもいれば使えないのもいる。おそらく、内田に渡しても、象徴以上の意味はないだろう。内田は、半端な映像を遠くからしか見ていないので、ほとんど観念で喋っている。その意味で、内田の杖や、居合の日本刀も象徴だろう。内田の浅はかな武道論など、三島由紀夫の虚弱児コンプレックスをボディビルで慰撫した程度にしか思えない。内田は、形武道の自覚も意義も分からないままに、現実のゲバ棒を考えているが、それは形武道も分かっていなし、ゲバ棒も分かっていない。
 ゲバ棒出現以前、恐いのは、警官隊の警棒だった。何人もの学生が、頭を割られていた。デモがあるときは、夕方になるが、機動隊の指揮者の合図で、一斉に警棒が抜かれ、それが、高速道路のランプに反射して光ったときの恐怖心を、内田は想像することができるだろうか。ゲバ棒の登場のころは、分かりやすいところでは、荒岱介『破天荒伝』にも具体的にある。
 普通には、武器は、少々材質が弱くても、長い方が絶対的に有利なのだ。すぐ折れる。折れたのを使えばよい場合もある。その方が個別の操作はしやすい。短いと折れにくい。しかし、まとめて機動隊の盾に突進というわけにはいかない。ブントで赤バットと称する農具の柄だけを大量に購入して配布したこともある。ゲバ棒でも警棒だけの警官なら対応できるが、機動隊員の体力は、当然やわではない。しかし、67年の羽田では、いっとき、ゲバ棒と投石の社学同が、機動隊を圧倒したわけだ。その後、機動隊の装備も格段に変化した。1968年の国際反戦会議で、フランス全学連(JCR)のジャネット・アベールは、「私たちは、日本の全学連の真似をしてヘルメットとゲバ棒で警察官に対抗しました。するとフランスの警察も日本の警察の真似をして、盾を作って対抗してきました。」と言って笑わせていた。
 デモも、かつてのデモは、そのまま普段着で行くことができた。ヘルメットは、その場であまっているのを被るとしても、被ってデモすることは、確かに、ついでということにはならない。それだけの気構えが必要である。そして、そのころには、活動家は、破れにくい作業服のようなものを着ていた。これは、かつての学生服のかわりかも知れない。
 内田の知ったかぶりというか、現場を知らずというか、恐るべき無知というか状況が分からないというか、想像力も無いのだろう。覆面は、当然に顔隠しだ。従って、アジテーションをしたり、代表として指揮している者は、みんな知られているから、覆面はしない。公安関係者が証拠写真に使用するために大量の写真撮影が行われているわけで、時には、新聞社の写真も危ないことがある。ヘルメットを被って隊列を組んだり、石を投げたり、ときには機動隊に突っ込んだり殴りかける写真が大量に撮影されているのである。
 内田は知らないのだろうか。.耳当てのついた、少々値が張るヘルメットもあった。これは、ちょっと特別任務がある者が被るヘルメットだ。
 時代は、それだけ、厳しくなってきていたわけだ。なにが「匿名性が高まった」だ。
 「捕り手」の形がどうして「武」道になるのか、内田はそこから考えたことが良い。茶の湯は、室町以来だが、剣術などというものの隆盛は、戦国時代など戦争の時代が終わってからだ。つまり、内田がやっている「形」ないし「儀式」の世界だ。今主流となっている武道は、幕末か明治以降のもので、それを、伝統的な不変の形として信奉している発想が、内田の惚けた解説に結果しているのかも知れない。
C 内田は「僕のなかで新左翼の運動というのは、国内に対立を持ち込むものじゃなくて、強大な国民的統合のための運動という、それ以外の政治運動って無いと思ってたわけだから」と言っている。「国民的統合のための運動」って、何のことか。いろいろあるけど、国民として、結合というより、統合か。これは、右翼というよりファシストの言説じゃないか。内田は、新左翼の運動というのは、ファシスト運動だと思っていたようだ。
 (47)で、内田は1975年くらいのときに、「ファシスト宣言」という本を書いた、とシャレでなく言っている。「俺は真のファシストだ」「真の意味でファシストなんだ、皆仲良くするんだバカヤロー。文句あるかっ!」とある。文句も何もない。馬鹿につける薬はない、としか言いようがない。「真の」というところで、勝手な観念のよりどころにしているのだろうが、「ファシズム」が、どうして問題になるのか、少し具体的に勉強なり考えるなりすれば、恥ずかしくて言えないことだ。これは、内田自身が、自分はデマゴーグであると、自分で言っているようである。
 黒田さんの、聞き取りの最初の人物として、とんでもないのが登場している(きっかけの人だから仕方がないにしても)が、当時の学生の運動とマッチしてよく読まれたのは、小熊や小阪の著書には、当然出て来ていると思うのだが、羽仁五郎『都市の論理』や平田清明市民社会社会主義』である。これらに共通しているのは、共同体、コミューンである。大学は、そもそも自立的な人々のコミューンだったわけで、そういう人と人のつながりが、カレッジやユニヴァーシティだったということで、党派の人間ではない学生たちにも、自分たちの運動に確信をもたらすようになった。
 平田清明は、高名なマルクス経済学者だが、市民社会社会主義という論文集のタイトルが示すように、両者を対立的に考えない。そして、communismに共産主義という訳語をあてるのに疑義を呈し、コミューン主義、共同体主義の義を強調したいと書いていた筈だ。ファシズムじゃない、コミューン主義だ。
 戦う学生の意識のどこかには、パリ・コミューンの市民の姿があったはずだ。
 これは、全くの余談だが、団塊世代というのは、実は幼児期に、「鞍馬天狗」の活躍をみている。鞍馬天狗の原作者、大佛次郎は、東大法学部の出身で、「鞍馬天狗」という物語のベースに「紅はこべ」の物語やパリコミューンの歴史がある。
 内田の言い方を見ていると、68-9年の学校を思い出す。確かに、内田のような教師をとっちめるということが、学生反乱のモチベーションの一つとしてあった。単なる一つと言うより主たるものとしてあった。
 大学進学したものは、野木も少し言っているように、それなりに大学教員の授業に期待しているわけで、そこで、いきなり惚けた話をされると、それは、なんだと思う。そこへ、大人びた、百戦錬磨の達者なやつが出て来たら、こんな人もいるんだと思うし、一方で、もう人任せでは駄目なんだとも思う。
 確かに全共闘は、時代的条件が大きいと今にして思う。学生は、ほとんどが戦後生まれで、新しい教育制度のもと、その変化(勤評闘争など)を実感しながら成長してきた(日教組を誹謗する者がいる。日教組は、戦後の教育理念をなんとか実現しようとしていたわけで、最近の教育過程の低迷は、日教組の衰弱と対応している)。
 面白いことに、大学にも、同じような面があった。例えば関大の法学部といえば、法曹界では、なんとか勢力があったが、大学と言うか、本格的な法学部としては戦後の学校だった。従って、よく分からない親分子分関係で就任したような教員もいれば、戦後の出発に際して、主軸として活躍した意欲的な人物のスカウト活動での要請に応えて、赴任し、その期待に応え、その情熱を共有している、少壮のスタッフたちもいた。
 新しい制度下で成長してきた学生が大量に入学し、その大学の現状に戸惑い、情熱を溜め込んだときと、戦後に採用され成長してきた教員たちが、これじゃあ、駄目だよ、という思いでは、合流したのである。
 内田が、学生か何かのとき、「真のファシストだ」などとは、アホな学生の言っていることとして、無視されただけだ。当時、教員としてこんな惚けたこと言っていたら、特別の学校以外では、居ることはできなかっただろう。
 黒田さんは、笑って聞いておられるようだけど、大丈夫かと思う。黒田さんには、やはり「理解できない」のかも知れませんね。

D 内田は、明治維新尊皇攘夷で、全共闘は、そのアヴァターの攘夷だと言っている(17)。確かに関大でも、学生が決起したとき、ある教授が、突然、決起学生派にエールを送る演説をした。いまこそ、関大の夜明けだ、維新だ、みたいたことを言った。これは、教員の間に不評だった。「あの先生は、教授会では一言も喋らない人だ。」(つまり、こんなところで、自分をアピールするのはおかしい。)という若手教員や、「あんなええ加減な明治維新、君らは信じてはいけませんよ。」と歴史学関係の教授は怒っていた。
 攘夷、鬼畜米英、反米ナショナリズムか、馬鹿もほどほどにして欲しい。(一言しておけば、明治維新は、尊皇攘夷とは関係ない、というより尊皇攘夷など言う連中を、指導し、できないやつは、粛清までした結果だということを知らないといけない。)
 安保全学連、あるいは、そのときのブントの理論は何だったか、黒田さんも少しは勉強したのだろう。内田も、吉本隆明はよく読んだ、というのなら、吉本が姫岡玲治の「第三次綱領草案」を絶賛している文章があったのを知らないのか(尤も、内田は、吉本が社会的な影響力をもちはじた1965年ころの最初の読者の一人だ、などとこれまた出鱈目に等しいことを書いている。吉本の政治的評論文を集めた本『擬制の終焉』は1962年刊で、しかも、これは集めたものなので、リアルタイムというのなら、それ以前のことを言わないといけない。要するに内田は、吉本隆明の書いたものをリアルタイムでフォローしているわけではない)。
 姫岡は、50年代における日本の国家独占資本主義の成立を説き、その表現としての安保条約の改定であると位置づけ、日本共産党の反米闘争を批判して共産主義者同盟の結成となったのである。だから、60年安保闘争は、日本の独占と権力に対する闘争で反米闘争ではなかったのである。それが新左翼だというのは、常識の筈だが、内田には、そんな常識はなかったのか。
 60年安保闘争時にも、反米攘夷闘争如きものは確かにあった。ハガチー事件という。反主流派(つまり日共系)学生が起こしたものである。このことも、吉本隆明擬制の終焉』にも、つまらない拝外主義として出てくる。
 ベトナム戦争についても、当時の学生の意識とは、内田の感覚とは随分違う。ベトナムの人を可哀想などという生意気な心情などなく、勝つつもりで勝ちつつある姿には、畏敬の念しかなかった。そこで自らの根拠で戦うということを考えただけだ。

 黒田さんの論文を、全共闘一般を対象にしたものとすれば、問題は非常に多い。第三章第三節「考察の切り口」というところで「ラディカルという思考方法」という項目がある。全共闘ノンセクト・ラディカル・グループのラディカルには、過激一般ではない意味がある。当時の文などが、雑誌などでも残っている筈で、少しみれば、それが、どの方向をみていたのか、分かってくる筈なのである。このノンセクトのラディカリズムこそ、全共闘を一番に表していたのかも知れない。
 黒田さんご自身が、新左翼全共闘と区別がつかないようである。もう少し、勉強されるべきだったかと思う。実際の人間はかぶっていても、基本的には全然違うのである。全共闘は、政治組織ではないのである。
 内田は、考えようもしていないようだが、68-9年の東大闘争では、山本義隆は後発である。内田は意識していなかっとしても黒田さんは勉強している筈だ。今井澄は、何をしようとして、そして何をしたか。そのパーソナルヒストリーでも考えて貰いたいと思う。つまり、なにかで全体を被せるようなやり方をしないで、分かるやり方で、着実なやり方も考えて欲しいと思う。これは、内田が、自分自身きちんとした勉強したことがないから来ることであろう。
 内田の聞き取りに関して1・2言及したが、明らかにおかしいところがある。こういう聞き取りには、そういう虚偽というか、思い込みが紛れ込むことがある。それも、そういう思い込みもあります、という材料として出すこともあるが、あまりにも荒唐無稽なものは白けるだけであり、関係した他の方々にも失礼なことになる。だから、聞き取り調査というのは、気を付けないといけないところがあるのである。
 尤も、野木・渡邊それに匿名の画家の方、それぞれがかけがえのない話である。それが提供されたということだけでも意義がある。黒田さんが、おっしゃるように、少人数で年齢が偏っている。どのような偏りか、どのような状況かを、本当は、黒田さんが認識して論文構成すべきだったと思う。
 もっと勉強して、理解して、その上で、具体的なことを個々に聞くようであれば、よかったと思う。尤も、今、勉強し直してみられても、自分が直接聞いたことの意味が、もっと判ってくると思う。
 これは、「はじめに」や第三章の黒田さんの文について思ったことである。