年齢不足だった内田樹君、爺ぶらないで ― 極私的関大全共闘番外② 

 渡邊君が40年も前の関大時代について語ったインタビューがあったので、それが含れているレポートに言及してしまった(番外①)。
 そのとき、書くのは控えたが、そのレポートは、学校の生徒が、村の古老(内田)に昔話を聞にいく光景をが浮かんできた。しかし、せっかくの渡邊の話を書き留めてくだった黒田さんに失礼だと思っていたが、「内田の研究室」2009年1月10日「あれから40年」には、私がそう思っただけでなく、そのような光景は内田が自覚していることだったようだ。

けれども、よくよく考えてみたら、私自身がもう彼女(クロダさん)たちの世代からたら「歴史的事件を語り継ぐ」古老の立場にいたのである。
69年の全国学園闘争とは何であったのか、お嬢さん、それをこの老人に聴きたい、と。 ほうほう、それは奇特な心がけだのう。

 この「水戸黄門」みたいなくさい台詞はなんだ、恥ずかしい。恥ずかしいことでも平気できるのは、このニセ古老、内田の感覚なのだから仕方がない。内田樹とは、結構リベラな人として評価が高いと聞こえてくるだけに、たまり見かけた文章でも、まだ、感心すものにお目に掛かったことがないのは残念である。
 「歴史的事件を語り継ぐ」つもりのようであるが、「69年の全国学園闘争」と出てくる。いきなり意図的な誤魔化しをするのかと思ったが、内田は、全国学園闘争の年は、「69年」だと思っているのであろう。勿論、関大では確かに69年だったが、四方田の本も『ハイスクール1968』だったし、クロダさんが一所懸命に読まれた小熊の著書も『1968』である。これらが、1968であったのは、根拠がある。というより、事実上そうである。東大安田講堂の攻防は1969年の1月だった。ということは、闘争の大半は68年である。やり画期的だった日大闘争は1968年だった。内田がどうして、こんな見当違いをするかいえば、現実の全国学園闘争に遭遇していないからである。勿論歴史的検証など準備も方法もち合わせてなどいない。
 69年だと思ったのは、全国全共闘の結成集会が開かれたのが、1969年9月だったと記憶しているからであろう。しかし、これは、「全国学園闘争」とまとめて言うようであば、その墓銘碑に近い。京大時計台の籠城はまだ続くし、いよいよこれから闘争のとこもあったとしても、個々に具体的な課題を背負って具体的に推進してきた闘いが、諸党派の意向で纏まるというのは、大きな逆立ちだからである。
 内田は、実際の学園闘争も知らないし、理論的なことも知らない。新聞の見出しとテビの画面を記憶しているくらいなのだろう。

新左翼学生運動というのは、幕末の「攘夷」運動の3度目のアヴァターなのだ。
そのことを政治史家たちが見落としているのはいささか私には腑に落ちぬことである。

ちょっとこれは……、あほ!とか、どあほ!とか叫んでしまいたくなる。たしかに、いつでも、どこでも、低脳排外主義者は居るだろう。でも明治の新政府を担った人物で、どこに尊皇攘夷者がいるか言ってみたまえ。尊皇攘夷が、そんなに、急に開国主義者になると考えているのか。たしかに、日本史教科書などに、尊皇攘夷から、突然、倒幕になったように書いてあることがある。このニセ古老は、そのような政治史家の見解によって書かれた教科書をみて、明治維新は、尊皇攘夷の結果だと思ったのだろう。出来の悪い、政治史や歴史家の話にかぶれて、間違った解釈をして、そこで得た誤解で、その政治史家を非難している。このもうろくしたニセ古老、なんとかして欲しいね。確かに教科書も悪いけれども、新左翼を、排外主義者と考えるのは、政治史家たちでもいない。
 とにかく、古老ぶっているから、もう遅いかもしれないが、できることなら、最初か勉強しなおして欲しい。新左翼新左翼たる所以は、国際主義なのだ。それだけで、もう内田については、言うことはない。単なる惚けた若めの年寄りにすぎない。惚けるのが少し早すぎる。古老ぶるのは古老に対して失礼だ。
 『反逆のバリケード――日大闘争の記録』……これは、1968年を代表する出版物だ…をせめて読んでみたまえ。もうろくした内田の頭に巣くう「反米」だの「攘夷」など出てきようなどないでしょう。
 本当は、別のことが言いたかったが、とんでもないものが目についてしまった。