内田樹「ネットで罵倒を見ると生命力が萎える」

  web.R25(2011.08.05)に、内田樹が、1日、「自らのブログ『内田樹の研究室』にて『ネット上の発言の劣化について』というエントリーを発表。内田が『ネットに呪詛をき込む人』を糾弾した論説が大きな反響を呼んでいる。」とある。

内田はまず、ネット界では「自分自身がやりとりしている情報の価値についての過大評価が起こっており、その“過大評価”に伴う「根拠を示さない断定」「非論理的な推論」「詛や罵倒」が存在することを指摘。これは、「お前がオレの言うことに同意しようとしいと、オレが正しいことに変わりはない」=「お前なんか、いてもいなくてもおんなじんだよ」ということであると主張する。
そして内田は、「そういう言葉を聴かされているうちに、しだいしだいに生命力が萎えくる。それはある種の『呪い』である」と断言。「攻撃的なコメントが一層断定的になりかつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている」と言う現状を“劣化”という言葉で説明している。 web.R25(2011.08.05)


 これに対して、色々な意見が寄せられているらしい。内田の見解に納得するもの、また、そもそもネット上のものを「発言」というのか、とか「劣化」というほどの歴史がるのか、という内田の意見への疑問もあるようである。
 しかし、「内田樹の研究室」自体が、内田の言う「劣化」していないか。当方は内田のブログも何も、内田のものをそれほど、というよりほとんどフォローしていないので、確かなことは言えないが、たまたま見た、全共闘とか、学生運動とか、歴史とか文化とか、など言い出したら、ほとんどのことになってしまうが、ほとんど内田の書いていることは「怪しい」。
 いつの文章であったか、内田は、自分がフランス現代哲学とかフランス現代思想の研者として紹介されるがとんでもない、自分はレヴィナスを読んでいただけだ、という言い方をしていたことだけが印象に残っている。つまり、レヴィナスについての本格的な研究といったものはないとしても、とにかくレヴィナスだけは、実際に読んでいたのだろう。だからこそ、フランス現代哲学研究者などと言われることに抵抗を感じたのだろう。
 そうだととすると反対に、武道家といったり、学生運動について古老ぶったりする、知ったかぶりする、あるいは、それを売り物にしてるようなこと、武道についても、学生運動についても、歴史についても、これらは、ほんど「虚偽」なのか。でも、しゃれにしては、喋りすぎ、書きすぎじゃないのか。
 汚い言い方は避けたいが、自分の出したものの臭いを嗅いで、臭いなぁ、て言っているようだが、人のふりみて、我がふりなおせということか。