吉田繁実弁護士の見当違い、吉田氏、実は素人じゃないのか?

 朝日新聞2011月10月5日の34面に

「素人判断批判、見当違い」小沢氏起訴 検察審同席の弁護士

という見出しの記事がある。検察審査会に法的な助言をするために同席した吉田繁実弁護士への取材記事である。
 司法制度問題に限らないが、この間の朝日新聞の記事は、目を覆いたくなるほどである。
 半藤一利の昭和史研究は、われわれへの課題を次々に提出しているように見える。1930年のロンドン軍縮会議における海軍軍令部と海軍省との争いについての注目すべき叙述がある。また、犬養毅鳩山一郎が、右翼を従えて軍縮条約締結は統帥権干犯として民政党政府を攻撃をするのに対して、朝日新聞は、正当にも統帥権の干犯ではないとした。それが、満州事変の直前になって、朝日新聞は、軍部というよりは、大陸で、侵略の実力行動にでる関東軍などの謀略を、批判するどころか煽るようになるのである。半藤は、ここに関東軍が失敗した張作霖爆殺事件と、国民を地獄に陥れる狂気じみた戦争の開始になる満州事変の端緒、柳条湖事件の違いをみる(半藤「朝日新聞がかわった日」)。
 半藤の論説を思い出したのは、ここ数年の朝日新聞の記事が、まともでないからである。半藤が注目した時代を想起するからである。同時に、朝日新聞に登場する弁護士の法学的基礎教養に対しても疑念を抑えることができないのである。
 吉田繁実弁護士、並びに、朝日の記者は、「起訴」ということについて、どのように考えているのか。起訴ということで、現実にどれほどのものが失われることになるのか理解しているのであろうか。それを、「疑念を払拭できない」というようなことで裁判にかけることが許されると考えるのなら、それは、確かに素人判断だ。吉田弁護士は違うと言っているが。
 しかし、検察審査会という制度の趣旨についての認識は、法曹記者としても、弁護士としても、お粗末としか言いようがない。
検察審査会というものが、大陪審(起訴陪審)あるいは、検事公選制に代わるものというのが、普通だろう。だとするならば、検事が出してきた証拠では、起訴できるかどうか、チェックするものだろう。起訴できると考えても、陪審で起訴しないこともある。検察審査会の設立が、大陪審(起訴陪審)を原型とするなら、検察の行き過ぎをチェックする筈のものである。
 ところが、今回の場合、検察の判断はあまい、疑わしい、裁判にかけろ、これこそ、司法が政治に利用される危機に晒すものである。今回の検察審査会の制度変更と、実態は、検察審査会の原型としてあった大陪審と、性格を真反対のものにし、司法を政治の道具にする危機をもたらしたものとして、深刻に考えなければならないものなのである。
 朝日新聞の久木良太という司法記者ならびに吉田繁実弁護士こそ「素人」と言わざるを得ない。