「〈たそがれの品川宿〉【余談】について」追加……内田樹は拙い。

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 〈たそがれの品川宿〉が【余談】であれ、「tono-taniの日記」を紹介してくれた。ただ、ちょっと情けない紹介だった。妙な気取りもみてとれて、気恥ずかしかった。ただ、〈品川宿〉があまりにもロー・ブローなので堪らなかった。
 先日、〈品川宿〉に促されたような格好で、2011年9月の「tono-tani」を一瞥したときは、品川宿が言うような非難も論難も何も見当たらないと思っただけだった。
 改めて確認すると、「tono-tani」は、院生の内田へのインタビュー記事をみて書いているようである。9月2日にアップされた文は、少々長い。当方もあまり読んではいなかったから、〈品川宿〉をあまり責めることもできないが、それでも〈品川宿〉は、ほとんど読めなかったのかも知れない。
 読んでいれば、先だっても触れたことであるが、内田が全共闘を国民統合運動だとしていることが気になった筈である。
 2011年9月2日の「tono-tani」を見て判ったことだが、確かに内田は〈嘘〉が多い。〈品川宿〉がいう経歴詐称とかそんなことではない。例えば、内田は、吉本隆明の著作を高校時代からリアル・タイムでフォローしてきたの類である。
 これは吉本をどうみるかということも関係するが、吉本は、「転向」という問題おいて、画期的な仕事をしたことで、自他共にみとめられるが、今なお、評価が高いのは、マチウ書試論である。これは、1954年の作品である。1950年生まれの内田にとっては満4歳になるかならないかである。吉本が学生によく読まれたのは、安保闘争のあと1962年に編集出版された『擬制の終焉』である。内田は、まだ小学生の筈である。吉本は『試行』で「言語にとって美とは何か」を連載していて、勁草書房から2冊本で出版したのが1965年で、内田は中学生である。『共同幻想論』は『文芸』で何回か連載していて、書籍として出版したのは、1968年になる。そのころが、内田が高校生だったころであろう。内田がリアルタイムで吉本の著作を読んでいたというのは、このことを言うのかとも思う。
 そうであるなら、内田の言うことも、あながち〈嘘〉でもないのかとも思う。しかし、吉本隆明共同幻想論』は、読み物として読むのは勝手だが、古事記の世界と柳田国男遠野物語を無理に重ねたものである。吉本『共同幻想論』の「禁制論」で次のように述べる。

わたしたちの心の風土で、禁制がうみだされる条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえていることである。この条件は共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想もまた入眠と同じように、現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。そしてこの状態のほんとうの生み手は、貧弱な共同社会そのものである。

 これは、日本の近世農村を念頭におけば、つまり、古代まで連なる社会ではなく、いろんな条件を設定すれば、かなり判りやすいのである。しかし、このような閉ざされた社会は有り得ない。近世農村を念頭におけば判りやすいといったのは、そのような〈閉鎖〉の構造を考えやすい条件があるのである。本当は閉鎖されてはいない。吉本は、このような閉鎖された〈共同体〉は古代に起源をもつと誤解した。この『共同幻想論』は、失敗作でもあった。多くの条件を加え無ければ読めないのである。
 だから、さきほど〈嘘〉と言ったが、正確ではない。内田は、失敗作の作者こそが吉本だと思っているのである。間違えているのである。『共同幻想論』も見方を変えれば、面白くないことも無い。しかし、古代史家も民俗学者も説得できないだろう。以前の吉本が書いたもの、例えば『丸山真男論』は、多くの質の高い読者を獲得していたのである。
 内田には、〈嘘〉とほぼ同程度の拙い間違いが多いということである。
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 さて、2011年9月11日「tono-taniの日記」に次のような内田の言説の引用がある。

新左翼学生運動というのは、幕末の「攘夷」運動の3度目のアヴァターなのだ。
 そのことを政治史家たちが見落としているのはいささか私には腑に落ちぬことである。

 攘夷運動からは、内田のいう国民国家など出来はしないことを、内田は判らないようである。1865年には、薩摩からイギリスに19人の留学生が派遣されている。1867年パリの万博には、幕府とは別に薩摩から出品していたことも知って言っているのだろうか。
 確かに高校日本史教科書、まだ少し拙い。薩英戦争で、薩摩は攘夷が不可能なことを知った、などと書いている。萩原延寿 『遠い崖――アーネスト・サトウ日記抄』でも少しみれば、そんなことは、おとぎ話だとすぐに判る。薩英戦争の理由は、生麦事件であるが、生麦事件というのは、攘夷行動ではない。流石に最近の多くの教科書ではこの事件を攘夷行動とする記述は姿を消しては来ている。イギリス商人たちは、再三の忠告を無視して、久光の行列を妨害したので、排除されたのである。そのことは、イギリス側も判っている筈である。イギリスからも注意がでていたことだったのである。
 さて、イギリス艦隊の攻撃で、鹿児島は火の海になるが、薩摩の攻撃で、(イギリス艦の自爆もあったともあるが)旗艦ユーライアラスの艦長・副長も戦死するという結果をみた。先の萩原の著書のよれば、鹿児島は火の海になりながら、薩摩は戦勝気分で、イギリス軍は沈痛な気分に陥った状態が叙述されている。
 このとき、イギリスは、薩摩の交渉に出て来る人物に、幕府の人間とは全くことなる人間としての手応えを感じたとある。以後、イギリスの薩摩への肩入れがはじまる。
 内田の「攘夷」運動のアヴァターなどというトンチンカンはどこから来るのか。自分で勉強して考えて、書かないからである。自分で書いていれば、変なことに気が付く筈なのだが、適当に喋ったり聞いたりばかりしているから、変なことに気が付かないのであろう。攘夷運動のアヴァターだなんて、橋下徹たちの「維新」と五十歩百歩でしょう。