「教育はビジネス」という勘違いが生まれる理由

 内田樹神戸女学院大教授(当時)と平松邦夫大阪市長(当時)の「『教育はビジネス』という勘違いがクレーマー親を生む」という対談があったのは、2011年1月のことだったようであるから、1年前のことになる。内田樹の言うことは、ときどき感心しないが、「教育はビジネスという勘違い」というのは、そのとおりだと思う。
 ところが、未だに、「教育はビジネスですよ」と、したり顔で言われてしまう。しかも、全く勉強しないどころか、まじめに研究をなさっている方に言われてしまうと途方にくれる。尤も、その時は、「企業」という言い方をした。しかし、利潤を追う企業の意義を元にした言い方なので、それほど大きな違いはない。単に、一つの組織として教育機関も運営されるという意味で「企業」を捉えられたのではない。種々の宣伝や、客よせ戦略が話題になっていた。小熊正二や、すが秀実、それに四方田犬彦の本のタイトルにある「1968年」には、大学のもともとの意義、いわば組合としての大学などが本気で議論になっていた。そういえば、中国文化の展開軸にもなった文学革命での中心人物胡適が本格的な勉強をはじめたのが、そのような上海での組合大学においてであった。
 「教育はビジネス」とか「学校も企業」というのは勘違いである。そして内田は、それがクレーマー親を生み出し、教育の危機を生み出しているとする。確かに、そのようなニーズに応えるとか、それらの判ったふうな発想は、新しく大阪市長になった橋下徹の政策や、兵庫県教育委員会の学区いじりにも表れている。すべて、お客様のニーズに応えるという発想である。
 しかし、内田が「勘違い」と言う「教育はビジネス」「学校も企業」「ニーズに応える」といった言い方は、蔓延している。この「勘違いが教育荒廃の原因」は、あきらかに正論である。荒れている中学校は、ほぼ例外なく、校長が「お客様」に接している。これは、他の意見を聞くというのとは違う。森真一の著書をみればすぐ判る。「お客様に接する」というのは、人の意見を聞かない方法なのである。
 「ビジネス」とか「ニーズ」を念頭においた典型例が、浪速高校の「関大コース」とか、関関同立の合格差数である。しかし、この合格者数は、とくに大阪の清風や上宮、桃山、さらには東海大仰星でも周知のことで、新聞が浪速高校だけをあげたのは、不可解ではある。
 これは「教育はビジネス」とメディアが煽り、煽られて、学校「経営」に乗り出した「教育者もどき」の茶番にすぎない。そのなかで、生徒や保護者が弄ばれているだけである。
 なぜ、こんな粗末な勘違いや、非教育的茶番や災害が生まれるのか。それは、「教育はビジネス」とか「ニーズに応える」というような嘘が、教育者もどきには分かりやすいからである。嘘がわかりやすいというのは、「教育」ということに確信が持てないからである。
 事業を行う以上は、些末な手続きや、企画が欠かせないが、教育を志すもの、どのようなことでも、ビジネスとは思ってはいない。本当に「教育」に確信があれば、ビジネスなど引き合いにする必要はない。学校の衰退を営業活動の問題にする話を聞く。それも分かりやすい。結構、ビジネスの問題として納得する。本当にそうか、と思うべきである。
 「『教育はビジネス』という勘違い」は、依然として増殖している。繰り返すが、この勘違いは、「教育する」ということを欠落して説明するところに、「説明」上での決定的な欠陥をもっているのである。
 お客様の「ニーズに応える」こと考えて、そのための「教育」を考えるのか。明らかに転倒している。日本の教育は危ない、と言われて久しい。そもそも、「教育」ってどう考えていたのか。日本の社会科学が危ないと言われるが、実は、自然科学も危ないとは、日本のノーベル物理学賞の受賞者が警告していたことだ。
 教員養成学部の学問的荒廃がひどい。「教育する」主体が、空洞になっていることが、「教育はビジネス」などという迷妄を賢者の言葉かのようにしたのだ。すると、実は、これは内田樹にも返ってくる問題ではないか。内田の活動は、「教育はビジネス」に実質加担していなかったか。
 要するに、「教育はビジネス」というのは、「教育するもの」を持たない者の、「教育企業」運営表現にすぎない。だから、教育抜きの同義反復、つまり、「企業はビジネス」ということなのだ。
 そうしてみると、教育がわからないから、「ビジネス」をなぞって言っているということが判るし、内容がないので、それは、顧客のニーズ次第ということになっている。
 浪速高校の「関大コース」問題にしても、毎日新聞(2011年10月25日)によると、「校長」は、どれだけ「お得か」という話題で話していたらしい。