小椋孝士の吉田著書評メタ書評・補足―駄目なものは駄目、それどころか……

 小椋孝士が吉田徳夫『部落問題の歴史的展開』の書評で「国法違反」がキーワードだと書いていることについて、先般、なんのこっちゃと書いた。ちょっとしたメモのつもりだったが、「小椋孝士」で検索すれが、すぐに目に入ってくることに気が付いた。つまり、小椋も自分の書評が、少しはチェックされていることに気が付くと思うのである。
 小椋にすれば、吉田が一向一揆の一部の「勅命講和違反」を問題にしていることを取り上げたのに、このメタ書評は無理解なことを言っていると思ったかも知れない。
 しかし、よく知らない者が、何か言っているに過ぎないと受け流すことはナンセンスである。自分(小椋)が何を書いているか解っていないのではないか、と書いているのである。
 端的に言えば、小椋の書評は二重にナンセンスである。吉田は「勅命講和違反」とは書いているが、それを「国法違反」と解するか。吉田が範とする石尾芳久は石山本願寺での戦いにおける勅命講和を重要な局面としており、その勅命講和に従わないグループの戦いに決定的な意義を認めているが、それ自体が差別の本質とは言っていない。吉田著の難点であるが、ここで詳しくは言わない。
 小椋は、分かりもしないで、それを前提として吉田に提案までしている。提案などできる資格は小椋にはない。吉田著にも問題がある。本質的なところで問題がある。そのことを問題にできないかぎり解放運動への貢献はない。
 小椋は何か勘違いしているのではないか。このような駄文は、解放運動を停滞せしめるだけだ。正しいとか間違っているとかの問題ではない。部落のことを扱うことで、批判されないかのような書き方が問題なのだ。いい加減な、傍目には解らない言葉を使っても平気である傲慢さ、つまり自分が解っていないことに鈍感なこと、このことが致命的に駄目なのだ。
 前に書いたが、これは小椋のメモではない。関西大学人権問題研究室室報に掲載されたものなのである。このような杜撰な文は、人権問題、部落解放に寄与しうるどころか、むしろ、問題解明を困難にし、部落問題に真摯な目を向けることへの障害になりかねないということ、嫌、実際にはなっていることを自覚すべきである。
 このような愚昧と傲慢は、反動と差別を生み出す。既に木村洋二の文を生み出している。吉田たち(小椋も含むか)が範とする石尾芳久は、人権問題研究室の前身を立ち上げるときに、この危うさを、認識していた筈だ。
 吉田、小椋など到底判らないのかもしれない。