小椋孝士による吉田徳夫『部落問題の歴史的展開』(プレアデス出版2009)の書評 (関西大学人権問題研究室室報 第44号 2010.1.10)

 故木村洋二の愚劣な文章を№123に掲載していた関大生協『書評』編集委員長の吉田永宏は、そのころ関西大学人権問題研究室室長だったと思うが、その人権問題研究室室報№44に、吉田徳夫『部落問題の歴史的展開』の書評があることに気が付いた。
 いま吉田の著書そのものに言及せずに、その書評を問題にするのも変なようだが、人権問題研究室のいわば機関誌に掲載された文であること、それに、大塚信一の著書にもあったが、山口昌男がメタ書評の意義を語っていたこともあった。この書評のコメントをしてみる。
 メタ書評などとは、山口昌男のような博学博覧の人物によってこそなし得ることでもあろうとも思うが、書評もそれとして独立に書かれたものであるなら、そして、単なる感想メモでもなく、公表されたものなら批評の対象になるであろう。
 しかも、この小椋の書評は、人権問題研究室室報という研究機関の機関誌の文として、一応は、研究者として研究室によって託されたものである。「非常勤講師」とあるように、なんらかの教育あるいは研究に係わっている人の文である筈である。しかし、この1頁少しの文の趣旨は、まるっきりわからないのである。当方の読解力の問題かと反省してみるが、「著者吉田徳夫の作品を特記する第一の理由が、その専門性に求められる。部落問題を解明する『国法違反』という視点こそ、その本質をつくものである」とする。これは、ご丁寧にも最後にまた出てくる。「本書最大の意義は、複雑な差別現象に幻惑されうことなく、部落差別の本質を『国法違反』として、問題の所在を的確に捉えていることである」として、改訂にあたっての索引をつけることなどの提案を行っている。「問題の所在を的確に捉えている」そうであるが、すくなくともこれだけでは判らない。人権問題研究室の室報として出されたものであるから、研究室あるいは、室報の編集者は、判った、あるいは判ったつもりになったのだろう。しかし、裸の王様の家来ではないが、判ったふりはやめてほしい。こういういい加減さは、解放運動を冒涜することにしかならない。さきの木村洋二のようなものを生み出すだけだ。解放運動を停滞に導くだけになる。
 吉田の著書の意義が、小椋が書くようなものだったら、もう吉田の著書も見る気はしない。それにしても、小椋は、「国法違反」などと言って何を想起しているのだろうか。一向一揆キリシタン一揆などの宗教一揆を言っているのだろうか。「国法違反」とは、あまりにも一般的なので、もし宗教闘争に限定したとしても、それが差別に直結しない例は多い、というより、ふつうはしていない。
 小椋は何を「国法」と言っているのかよく判らないが、日本近世の種々の規範のことをいうのなら、部落差別は、幕藩体制下の種々の規範で構成されているのである。差別されている人たちは極めて遵法的であったとさえ言える。
 このような訳のわからないことを書いて小椋がとくとくとしているのは、我々には到底わからないが、小椋が著者の吉田とは、了解しあっていることがあるからなのだろうか。
 そういうことが前提となっているのなら、この文はとんでもない文である。なかまうちで分かり合うことばかりやってのうのうとすることなど、差別を助長することにしかならない。
 このような、一般に全く理解不能な文を掲載している人権問題研究室もあきらかに職責を果たしていない。また「いじめ」「虐め」と出てくる。 実際に差別から発生する虐めはあるが、部落差別とは関係ないところで発生する虐めとは、あきらかに異なる。問題は、「差別」であるので、このことの自覚がない小椋の差別認識は疑問である。
 故木村洋二の愚劣な文に、人権問題研究室が反応できなかったのも理由があることなのかと思う。