関西大学生協『書評』の惨状④、あるいは罪状……故鈴木祥蔵先生に謝す

     〈見出し〉
一 吉田永宏編集委員長は、故鈴木先生追悼「特集」を持ちかけて、それを№132 の「付録」にしたのか?
 関大文学部(教育学)教授玉田勝郎は、その「付録案」を有り難く受けたのか?
二 巻頭の田中登(関大文学部教授)「私流文庫の楽しみ」の救いの無さ
三 関大文学部(教育学)教授玉田勝郎らによる追悼
四 玉田勝郎の編集後記の拙さ


一 吉田永宏編集委員長は、故鈴木先生追悼「特集」を持ちかけて、それを№132 の「付録」にしたのか?
 関大文学部(教育学)教授玉田勝郎は、その「付録案」を有り難く受けたのか?。

 『書評』№132(2009/10)のことは、「エル・ライブラリー 大阪産業労働資料館」というサイトに、鈴木先生の追悼特集が「わずか2ヵ月で編集され…」と紹介されている。「わずか2ヶ月」とは、関大生協理事長の自慢の言葉として出たことか。時間のことを言うなら「2ヶ月もかけてこれか」と言うことも可能だ。或いは、きちんとしたことができないのを、「短時間だから」と言い訳したのか。
 編集委員会が、持ちかけた筈なのに、実質は玉田がやっているようなのもどうも、よく分からない。
 1.「特集をしたい」と言うのなら、雑誌の前面に出る筈だと思ったのだが、付録のような付け足しになっている。「私流文庫の楽しみ」が、いきなり出てくる。これがまた、とんでもないものである。あとで一言触れておこう。
 2.「書評編集委員会」が特集したいと言ってきたとしながら、編集後記は玉田勝郎が書いている、ということは、『書評』をかりて、実は玉田たちが編集したということか。そうならば、どうして、自前で追悼文集が出せないのか。
 3.その、虚偽が滲み出ているような、「特集」につけてあるタイトル「蒼茫 追想 鈴木祥蔵先生」が、その不可解な印象を決定づけている。どうして「蒼茫」なんじゃ。蒼茫も分からないが、「追想」も実は変。「わずか2ヵ月」というように、7月末に亡くなられて10月に配布するのは、確かに、実際には、本当に亡くなられたのかと事態を把握できない、あるいは先生の不在をまだ受け入れられない思いが錯綜するときから、準備しないとできないことではある。あるいは、配布時においてもしかとは先生の不在を確認できているのかと思う。つまり、先生は、まだ生々しいのである。「追想」もないものだと思う。しかし、編集者たちにとっては「追想」だったのだろう。編集者たちにとっては、先生が亡くなられたとき既に遠い人だったのだろう。タイトルからは、そう理解せざるを得ない。
 寄せられた文は、すべて思い出である。鈴木先生に対する思い入れが随分とある人によって書かれたことである。みんな迸る思いを、なんとか約められたことであろう。みんな、思いは一気に出ている。これを「わずか2ヶ月?」となどと思うか。それぞれの思いは貴重である。それぞれの人生でかけがえのない鈴木先生との交わりである。だったら、鈴木先生に対する思い入れは負けてはいないが、文をよせてはいない多くの人がいる。編集後記で玉田勝郎は、「寄稿依頼は本学関係者に限定した。それも、先生と直接のおつき合いをされた方々に絞らざるを得なかった」と述べる。舐めたことを書くな、玉田勝郎。本学関係者とは何のことか。「先生と直接のお付き合いをされた方に限る」などと本気で言っているのか。玉田は、先生と付き合いをされた方を掌握しているのか。
 因みに私はどうなる。本学卒業生で、講義も受けている。玉田が赴任する遙か前に、上新庄の、先生の大きな身体に反比例するかのような質素な、しかし先生のお人柄で充満したお宅にはうかがっている。教育学科のコンパは、お家でなされていた。私は教育学科ではない。それは直接のつき合いではないというのか。それが先生のつき合い方だった。とってつけた理由であることが見え見えではないか。客観的に説明しにくい関係に声をかけて、いかにも仕方なく限定させて頂きました、など、官僚はおろか、保守派の政治家でも口にしえない、恥ずかしい虚言だ。虚言でないなら愚かなだけだ。自分が如何に恥知らずな虚言を発しているかという自覚は、玉田にはあるのだろうか。
 鈴木祥蔵先生が91歳の生涯を終えられた。鈴木先生を、自分たちの、他に代え難い存在として精神的支柱にしていた小川悟名誉教授などの方が、とっくの前に鬼籍に入ってしまっている。鈴木先生のご両親はともに長命なお方だったから、不意をつかれた思いである。 

二 巻頭の田中登(関大文学部教授)「私流文庫の楽しみ」の救いの無さ   
 鈴木先生追悼を「特集」ならぬ、「特別付録」に押しやっている、『書評』本編の最初は「私流文庫・新書の楽しみ」になっている。「物理の世界から見る」という意図で、理科系のスタッフの文を載せるという企ては、悪くはない。尤も内容は少々拙い。しかし、巻頭の田中登「私流文庫の楽しみ」よりはましである。
 筒井康隆『大いなる助走』(文春文庫)をあげて内容を紹介している。同人誌に投稿した小説が文学賞にノミネートされたことから起こるドタバタを書いた娯楽小説である。内容は、京都から名古屋あたりへ出張の際、売店で買って読む程度のもののようである。その娯楽小説を「楽しむ」とは、変だと思わないか。「食を食する」のようなものだろう。こんな不細工な文が巻頭とは、『書評』№132は、これで終わっていたようなものだ。くどいけど田中は、国文の教授の筈だろう。この付録が、鈴木先生追悼特集だ。
 筒井康隆といえば、断筆宣言で話題になったことがあった。断筆というより断筆「宣言」が問題だ。浅はかな知識と偏見で、てんかん患者への偏見を増長するような作品を書き、教科書への掲載が抗議をうけた。出版社の角川書店が無断で、教科書から「無人警察」を削除したことに怒って、断筆を宣言したそうだ。その動機について、内田春菊との対談で「いままで、いろんないやなことがあって、自主規制の問題なんかでも担当者にいやな思いをさせたけど、いちばんいやだったのは僕だったし、……」と述べ、家族のことに言及する。ここで、筒井は、被害者になっている。「自主規制」などと言い、てんかんの「素質」などという無知から来る偏見による文を書いて、人を傷つけているという想像力が無いことへの反省など全くない。人を傷つける表現の自由という権利などはどこにもない。作家としての資質に問題があるのである。筒井も擁護する作家も、反省と自覚による本格的な断筆そのものを考えるべきである。「断筆」ということは、そもそもそういうことだ。筒井は、断筆の意味を軽く考え、大家にでもなったつもりで、「宣言」が業界への圧力にでもなるかと考えたのだろうか。筒井は「小説は、作家がそれを一つ書くたびに必ず誰かを傷つけているという芸術形式だ」と一般化し、自らの無知と想像力の欠如を誤魔化している。一般化して、自らの反省の機会を失っている。
 こんな作家の娯楽作品を「楽しむ」などという文が差別からの解放と教育の為に尽くされた鈴木祥蔵先生を追悼する雑誌の巻頭にあるのには、言う言葉もない。

三 関大文学部(教育学)教授玉田勝郎らによる追悼
A 多くの人が寄せられる追悼文に、鈴木先生へのそれぞれの思いがあるのは良い。しかし、玉田は、編集後記で、寄稿依頼を関大関係者と直接のつき合いがある人に限ったなどと書いている。端的にいえば、「身内に限った」ということか。身内に限ったものなら、身内で作れ。どうして『書評』の廂を借りる。しかも、巻頭に、筒井康隆の娯楽小説を楽しむような文がある雑誌の廂を借りるのだ。
 本当に、玉田たちは、教育学のスタッフなのか。つまり、話にロジックが無いのだ。ロジックが無い教育といえば、例えば、軍国主義教育だ。東京都や橋下徹が推進している教育だ。
B 鈴木祥蔵先生といえば教育学の世界の人だ。その鈴木先生の追悼特集を見ても、鈴木先生の教育学に関したものがほとんど見られないというのはどういうことだ。わざわざ、「関大関係者で、先生と直接つき合いがあった方」に限るなどしながらである。
 それでも玉田は『教育科学セミナリー』41(2010-03)に、「鈴木祥蔵先生の業績を偲んで」とするそう長くはない文を書いている。そのⅡで、鈴木教育学の骨格を6点(①人権教育論②保育論③学び論④学力論⑤教師論⑥共同子育て論)をあげることが出来るとする。その第1点目で、先生は、同和教育を「解放教育として再定義していく方位を定礎した。その理論規定には、『教育疎外からの解放』という〈人間疎外論〉(マルクス)の視座が一貫して捉えられている」(p.70)とある。「教育過程から疎外…」という叙述はあったかも知れない。しかし、人間疎外などという粗暴な言葉を鈴木先生が使用されたとは考えにくい。絶対とは言えないが、ヘーゲルを研究されていた先生である。easyな使用は困難である。マルクスの文献にも人間疎外などない。経哲手稿で、Entfremdung疎外を展開しても「人間疎外」などと雑なことは述べようがない。
 こんなことを書いていては、追悼にも偲ぶことにも成らないではないか。 
C 次に不思議なのは、教育学科設立時のことが全く語られないことだ。川口勇先生というこれ以上ない盟友を得て、そして、鈴木川口という両雄を中心にして、教育学科の無い時期から、関大の教職課程は、関西大学内外を問わずに異彩を放っていた。そこが、一つの学科として設立されることは、教育学会にとっても、関西大学にとっても、鈴木先生の人生にとっても大きな出来事であった筈である。
 実際、教育学科(に限らないところもあったが)では、教員・学生の活気をもとに種々の試みが行われていたと記憶する。これらのことは一切「追想」されていない。多くが、玉田赴任以前のことであったかと思うが、それにしても、という思いである。
 田中欣和は、『シベリア捕虜収容所「ラーゲル」の中の青春』を紹介している。私も、この書の魅力を推すことに吝かではないが、タイトルにあるように「青春」である。先生が、まだ、田中が助手として関西大学へ赴任する年齢より若いときのことである。すでにしてこの風格とは、独文などの年下のスタッフたちが、鈴木先生を慕っていたのも理由のあることだと思ったのであるが、この本は、田中に推薦されなくても読む者は読むのである。田中など何十年と先生と共同の事業を行っていた筈である。田中でないと言えないことがあると思うのである。
 先生の青春の一端は、書き遺して下さったので分かる。しかし、田中をはじめ「身内の方々」の、鈴木先生の長い人生への思いが希薄でないかと感じてしまうのである。それが、この特集という「特別付録」の印象になっている。
D 「綯う裁判員制度」なる特集が、ちょうど雑誌の中頃にある。またしても、呪文「綯う裁判員制度」である。何を思って、この不可解な呪文なのか、全く不可解である。「綯う裁判員制度」って、何ですか、どうして誰も言えないのか。言い出したら切りがないからか。
 「裁判員制度」というのは、あきらかに、憲法で保障されている筈の刑事被告人の権利をないがしろにするものである。日本国憲法第3章「国民の権利及び義務」は31ヵ条ある。その10ヵ条が刑事被告人の権利を保障したものである。この規定にもとづいて、戦後の刑事司法は発足した。裁判員制度は、これを根底的に覆すために、国家主義的な憲法学を展開する司法制度制度改革審議会会長が、小泉政権に答申したものである。
 鈴木先生は、教育基本法の改悪に抗議する集会に車椅子で参加されていたという報告をよく聞いた。生涯をかけて、戦後の民主的な社会の実現に尽力されてき先生の姿であった。その、追悼特集をする雑誌に、戦後の被告人の人権保証を根底にした司法制度解体を推進する文の特集を行うというのは、鈴木祥蔵先生の人生を冒涜しかねないものと考えざるを得ない。

四 玉田勝郎の編集後記の拙さ
 玉田勝郎が「編集後記にかえて」と巻末に書いている。「Oさん」と「Sさん」が、彼岸で対話している戲文を恥ずかしげもなく書いている。Oさんというのは、独文の名誉教授だった小川悟で、Sさんというのが鈴木先生らしい。これなど、事情がわかるものなら分かるが、身内だけに分かる、一般には分からない身勝手なもので、非常に不愉快である。全く「ジコチュー(自己中)」で、教育学を講ずる者のやることとは到底思えない。
 さらに不愉快なのは、H理事長というのが出て来て、「某地所を買い取って……」とある。これは明らかに久井忠雄理事長を茶化しているということは分かる。玉田の文の拙さにもよるのだろうが、久井理事長が、地上げ屋デベロッパーの印象ではないか。玉田の目には、久井理事長が、どれほど教学を尊重されて大学運営されてきたのかがあまり理解されていないようだ。最近の関大構内での緑の激減は、すべて久井元理事長の遺産を、よってたかって食い散らかしている、いわば玉田の同僚の仕業によるものだ。
 地名総鑑事件のとき、鈴木先生が久井理事長に心底からの助言をされたというのも、鈴木先生が久井元理事長の志をよく知っておられたからで、教育学科の設立にしても、鈴木川口に対する元理事長の信頼の結果設立されたものであることは間違いない。
 玉田は「乳研…」と書いているが、何のことか分からない。教育学科の設立自体が久井時代の産物で、玉田にとって大恩ある方なのだ。茶化さずにきちんと書けないのか。きちんと書けないので、茶化して誤魔化すということでは、《M》と同質である。
 2ヶ月もあったら、そのような信頼関係の結果、かろうじて現在があるくらいのことは、もう少し書けたと思うのである。
 しかし、玉田には、鈴木先生の教育原論における理解からして、不十分なところがある。これでは、橋下徹をはじめとする、新国家主義教育運動には抗することはできないであろう。その意味では、本当に危機的状況である、鈴木先生は到底浮かばれることがお出来にならないのではないかと暗澹たる気持ちにさせる「追悼集」である。
 玉田は何年生まれか知らないが、それでも、鈴木先生が、教員生活をはじめられたころの状況の一端は知ることができたと思う。『朝鮮戦争と吹田・枚方事件−戦後史の空白を埋める−』(明石書店)の著者である脇田憲一は、関西大学公開講座で、村上龍『半島を出よ』の登場人物の言葉をもじって、「なにもなかったけど、希望だけがあった」と述べた。教育の世界においても、戦前戦中の教育に対して、様々な試みがなされた、生活綴り方運動もそうだった。鈴木先生は、戦前の注入主義(indoctorinism)に対して自然主義と呼ばれていた。50年代は、その自然主義が花盛りで、先生は、多くの実践例をご存知のようだった。その素朴な自然主義に対峙しておられるときだった。
 田中や玉田はどのように歩んできたのだろうか。それ以上に今、危機的状況に直面しているが、追悼文集をみる限りでは、自ら引き寄せているようにも思えるのである。