橋下徹と石原慎太郎……これからの日本を考えるための試金石 


 橋下徹は、都議会選挙で負けたら、維新の会共同代表の進退を考えると言ったらしい。改めて、橋下徹の政治家としての資質が全くないデマゴーグにすぎないこと、いよいよ、橋下徹の存在自体が、日本が危ない状態にあることを表していることを思わざるをえない。
 橋下徹は、先の、外国人記者たちへの会見でも、政治家としての責任を問われ、「日本は民主国家だから、民主主義にのっとり、選挙結果で責任をはっきりさせる」とか訳のわからないことを言っていた。要するに責任は、市民あるいは、国民に任す、というのである。つまり、本人は無責任、これが橋下徹の民主主義である。
 次に、民主主義は人気主義だと思っているようである。今回の隣国蔑視、女性蔑視発言が人々の卑しい真情に結びついて、(つまりホンネを言ってくれたと思って)人気が出る、と読んだのであろう。「選挙」を口にするのは、今も、自分の「カン」ははずれてはいないだろう、と思っているのだろう。


 差別を前面に出して、人気を得ていくやり方は、橋下がはじめたことではない。しかし、橋下ほど、下品なやり方はない。
 この民主主義を、人気主義とする考えは、橋下は、ずっと表明してきている。石原慎太郎は、その大先輩である。
 なぜ、その問題を、ジャーナリズムも政治学者もきちんと問題にできないのか。結局は、崩壊したが、デモクラシーのいわば母国のギリシアにおいては、そのようなデマゴーグや人気主義者をいかに克復するのかが、大きな一つの課題であった筈なのである。
 日本のジャーナリズム、政治学は、まだ、二千年以上前のギリシャの課題に対応できていない印象を受ける。