半沢直樹「やられたら、やり返す!」への疑問


 人気ドラマ「半沢直樹」の最終回、視聴率が40%を越え、「家政婦のミタ」も越えたようである。確かに面白い。達者な俳優が揃っており、そのキャスティングがうまく行って、俳優が役をこなしている、やはり脚本がよいからだろうと思う。
 その面白さを、「水戸黄門」になぞる意見をよく聞く。しかし、その意見を言う人は、「勧善懲悪」の痛快感だという。「やられたら、やり返す、倍返しだ!」と勧善懲悪とは違う。
 町工場の経営者であった父親の無念を晴らすということでは、耐えて、耐えて、主君の怨恨を晴らす「忠臣蔵」の系譜である。「水戸黄門」というのは誤解である。
 もし、これから忠臣蔵の企画があって、吉良上野介のキャスティングということであれば、香川照之がまず筆頭候補であることは間違いのないところだろう。


 「やられたら、やり返す、倍返しだ!」は、復讐である。もちろん勧善懲悪ではない。 仕返し、つまり喧嘩の台詞である。
 「忠臣蔵」は、単なる、「やられたら、やり返す」、復讐譚ではない。幕府の裁きに対する批判がある。浅野が、庭先で切腹などという著しく名誉を傷つける処分の上、お家断絶とは、「喧嘩」相手の吉良への処分とは、あまりにも不均衡である。「喧嘩両成敗」の法理にも著しく齟齬するものである。
 もちろん「喧嘩両成敗法」は、「正」の究明を放棄したところで成立している。それでも、「喧嘩両成敗法」は、幕府のよってたつ法理なのである。赤穂の家臣たちは、吉良が不正であると思っているであろう。しかし、このときは、それは問題にしない、赤穂の旧家臣団の、吉良邸襲撃は、幕府が自らの保持しえてきた喧嘩両成敗法の法理に違背していることへの非難である。


 「半沢直樹」は「水戸黄門」ではないと言ったのは、「やられたら、やり返す」の復讐は、水戸黄門ではない、ということである。しかし、確かに自らの家族に対する仕打ちに対する復讐は、モチーフとしてあり得たが、また、決め台詞「やられたら、やり返す」は復讐だが、「忠臣蔵」も人気を博したのは、単に復讐譚だからではない。幕府の処分を公然と非難したからである。幕府の処分は不当、不正ということなのである。


 半沢直樹のモチベーションも、銀行や上司の不当、不正に対する怒りである。その不当、不正を糾弾し、行動することによって、銀行本来の信用と人間関係を構築していく話である。ただ、判りやすいように、そのモチーフを「やられたら、やり返す」という私憤的表現をとっているのは、大いにドラマの趣旨を損ねることになってはいないか。もし、半沢がさらに不当な不正なやり方で仕返したとしても、それは、「やられたら、やり返す!倍返しだ!!」などということになってしまいかねない。絶対にそれはありえない。それは本当は、単純な「やられたら、やり返す」ではないからだ。


 残念だが、ドラマ「半沢直樹」は、ほどほどの人気で終わる。近藤がタミヤ電気でのあれほどの窮地から脱出し、社長の信頼を得て、それが銀行員の仕事だと見栄まできりながら、銀行に戻れるように図るという大和田に「お世話になります」とは、白けてしまう。
 単に、私憤の復讐ドラマではなく、現代企業を材料にしたドラマなのだから、少しでも「ご都合」が出て来ると白けてしまう。「土下座」や「やられたら、やり返す」を通奏低音にしてしまったことが、両面の出ているのだろう。
 それでも、大和田常務が「自己の利益の為に迂回融資を指示」したことがはっきりしているのは問題で、ドラマのなかでも、大和田は「どうして自分が取締役にとどまれるのか」と言っていた。実際の元銀行員が、その程度にしておかないと、厳しい処分が行われると行政のチェックが入ってまずいことになる、ということである。
 それにしても、120億損失の内部告発を隠蔽し200億の融資をした。内部告発の報告書を確保するのが重要なシーンになっていた。そんな隠蔽は、支店長のやれることではない。特別背任である。ところが、刑事事件になり得るその話がどこかへ行ってしまった。特別背任になるようなことがらをうやむやにしてしまうようでは、ドラマのリアリティは消えてしまうではないか。
 せいぜい、「やられたら、やり返す!倍返しだ!!」なと言うとれ!といったところか。