関西大学生活協同組合『書評』№140の奇妙さ・稚拙さ

1 『自然災害からいのちを守る科学』〈岩波ジュニア新書)が、どうして「私流 新書の楽しみ」の対象なのか?……島田広昭関大環境都市工学部准教授に聞く
 最近の『書評』には、いつも表紙の裏と裏表紙の裏にべったりとあった田中登文学部教授のどうにも程度が低くて我慢ならない文があった。それが、今回はなかった。まだ、仲井徳の気恥ずかしいというより、破廉恥な文があるが、はじめと最後を汚していた田中登がないだけに見苦しさは半減したという印象である。
 ところが、田中登にかわって登場した島田広昭の感覚も分からない。、『自然災害からいのちを守る科学』がなぜ「私流」なのか?なぜ、新書の「楽しみ」なのか。このアレンジは、編集者の(M)の仕業だと言っても、島田があげる「ジュニア新書」が 深刻な切実な課題として書かれているということは、島田でも判るだろう。深刻で切実なテーマだから島田も紹介したのだろう。
 『自然災害からいのちを守る科学』を「私流新書のたのしみ」などとしてあつかうのは、小中学生のためにも思って出版した著者(川手新一・平田大二)たちに対して冒涜にも似た行為だと思わないか。
 ついでに、島田は、「私流文庫のたのしみ」として内田康夫のあほらしい本のことをわざわざ、扉に書いているので、言っておこう。この「私流文庫のたのしみ」なら、勝手にしておいてくれ、わざわざ組合財産を浪費してまで公開するべきものか。この馬鹿げたことを、(M)も島田も判らないらしい。「当時の仏教総本山とされる比叡山延暦寺」など仲井徳ばりである。仲井徳ばりって、意味判りますね。信長・光秀・秀吉と出て来る。関大の旧史学科は、かつては日本でもトップの陣容を誇っていたことは、島田は知らないのだろう。
 信長・光秀・秀吉の時代のことでは、多くの著名な研究者がいて、それぞれ、一般読者向けの作品も多い。かつて、とくに斬新な研究を世に出していた一人が今谷明である。今谷の著書に、「明らかに心身に異常をきたした晩年の信長」と述べるところがある。今谷ほどの人が根拠なく言うはずがない。秀吉も残虐さに関しては負けていない。こんな拙い「たのしみ」を、刊行・公開することは無いと思うのだが。
 
2 大丈夫か?澤井繁男!!
 この『書評』誌に「巻頭エッセイ」なるものがあって、澤井繁男の「『ルネサンス』をどう考えるか」という文章がある。
 実は、この澤井繁男は、少しは名も知られた作家でもあるらしい。そうであるからか、というべきか、それにしては、というべきか、このエッセイは拙い。文の趣旨もさることながら、文を支える認識の根拠が危ない。澤井は、高校教育について「世界史でも、『ルネサンス』にさかれる頁数は1頁ほどだという」と書き、「したがって、学年にかかわらず初心者を相手にする気構えでなくてはならない」と続ける。澤井はイタリア語の先生で、ルネサンスについて文を書いているようであるが、いかにもたどたどしく、澤井が「初心者」か? と思うほどである。
 最近、多くの大学で入学試験を外部発注していることが話題になっていた。自分の学校が受け容れる学生の学力チェックも自分たちでできないとは言いようがない思いであるが、澤井は、当然に入学試験や、入学前教育(例えば高校教育)のことなどに関心がなさそうである。少しでも関心があるのなら、「ルネサンスにさかれる頁数は1頁」などというデマを前提とした文など書ける筈がない。ルネサンスにだけさかれている頁は、山川の世界史Bも東京書籍の世界史Bも4頁である。きりつめて4頁である。関連するところがところどころに当然出て来るので、それも入れると頁数はもっと増える。
 おそらく澤井は、1頁ほどだと聞いて、不思議にも思わなかったのだろう。澤井が、実はその実態は……と書いている魔女狩り、つまり、魔女裁判についても言及していない教科書は無い筈である。教科書を作成する人たちは、決して無知でも無教養でもないのである。高校でどんな授業が行われているかは知らないが。
 ただ、歴史の場合は、まだましかと思われたが、実教出版高校日本史のような外部強制がある、それにしては、澤井の認識不足には腹立たしい思いである。自分の認識不足に基づいて、「初心者に教えることの困難」などを言うからである。
 澤井は「日本では、いまだに『文芸復興』という古い術語を用い、ルネサンスは暗黒の中世との訣別であり、近代のはじまり、と教えている。これは19世紀の説である」と書いている。
 澤井に、どこの日本かと聞きたい。おそらく、澤井は日本の高校を出ている筈だ。1954年生まれの澤井が使用した高校教科書では、もう「文芸復興」は参照程度に書かれたに過ぎなかった筈だ。古い用語に馴れた先生の言葉が耳についているのだろうか。というのは、ルネサンスを象徴するものとして教科書にあらわれるのは、ダ=ヴィンチやミケランジェロの美術作品で「文芸復興」という言葉と馴染まないなあ、と思う生徒がいた筈だからである。澤井が「文芸復興」などと聞いて、ミケランジェロが文芸か、と思わなかったのだろうか。ついでに、ミケランジェロにしてもダ=ヴィンチにしても、題材はモーゼやダビデモナリザなどのように宗教であることも思わなかったのか。言い出したらきりがないが、すこし具体的なルネサンスの話をすれば、澤井が言うようなことには、少しでも論理的に考える生徒には馴染めなかった筈である。だから、「文芸復興」などという言葉も、「岩屋島伯爵」(モンテクリスト伯)ほどの訳より判らなかったはずである。澤井は、残念なことに、高校生としてあまり良い教育を受けてこなかったようである。というより、おそらく良い生徒でなかったのだろう。
 澤井繁男は、イタリア語は堪能なのだろう。しかし、歴史や文化を論じるために必要なことが欠落していることがあるのではないか、という自覚はないか。このささやかなエッセイの土台になるささやかな事実に誤認がみられる。ちょっとチェックすれば判ることだが、自分で思い込んでいるので、チェックすることが出来ないのである。これは、澤井が高校卒業して、十代の終わりから二十歳にかけて受けた教育にも原因があるのだろうか。
 澤井は、ルネサンスを代表する文芸作品について「ダンテの『神曲』を挙げる人が多いだろうが、ダンテは中世の幕引きをした人物で、ペトラルカからルネサンス、つまり〈再生〉が開始するのである。それがボッカチョに引き継がれていく」とする。 澤井によれば、ルネサンス文化というのはキリスト教人文主義だそうである。『イタリア・ルネサンス』の著者に断言されてしまうと「そうなんですか」と思ってしまいそうだが、「中世の幕引き」とは何か、判らない。だいたい、澤井自身、中世とは一義的ではないと言っているではないか。そして、もし、幕引きなるものがあるとするなら、それは、何をもって?どのように?と思うだろう。このレトリックの弄びは、澤井の文を特徴づける難点ではないか。高校世界史の教科書にはルネサンスの叙述は1頁ほどしかない、は余りにも素朴な虚偽、いわゆる「すぐばれる嘘」だが、「ダンテの『神曲』は中世の幕引き」にも共通するあやうさがある。つまり、すぐ転ける。
ダンテの『神曲』で地獄・煉獄巡りの案内人として登場するのは、古代ローマの詩人・ウェルギリウスだろう。

3 近藤昌夫の文の趣旨
 この大学生協が出している『書評』という冊子、半端な文芸同人誌の趣きである。この度、めずらしく、中村義孝著『概説フランスの裁判制度』(阿吽社2013)の松村勝二郎評が載っている。ところが、字数制限を超えていたため、評者の諒解の上、編集者の責任でまとめたとある。
 ところが、その直前にある近藤昌夫という語学教師による澤井繁男の小説『若きマキャベリ』の紹介には、頁にして6頁ある。中村義孝著の書評は4頁なのである。
 だったら貴重な法学の書評を無理してまとめることは無いのに、この編集者ってどうかしてるんじゃないのかと思う。
 ところで、編集者も変だが、澤井の小説『若きマキャベリ』をあつかう近藤昌夫の6頁もある文の趣旨は何か。タイトルは「言葉の祭壇画―錬金術師澤井の結晶」とある。
 東京新聞から刊行されたらしい『若きマキャベリ』は、図書館などでは、あまりみかけない。近藤が文芸誌『文学界』などで発表されていると書いている。近藤は語学教師にすぎないと言っても、ここでは、主に学生相手に書評を書いているのだから、書誌的なこともきちんと書かないといけないのじゃないか。だいたい、近藤は、この文を書誌的なことから書き始めているのだろう。いついつの『文学界』で発表されたものなどが、この度、1冊の作品になったわけで、そこでの変容なども書いているようにも見えるけど、違うのか。
だから、取り敢えず、『文学界』(2012-7月号)で澤井繁男「若きマキャベリ」を読んだ。残念ながら、マキャベリがいないのだ。つまり、澤井がマキャベリ(ニッコロと小説仕立てにしているけれども、どこの少年?といった按配なのだ)に、まだ会えていないのだ。それは、重要な人物である修道院サヴォナローラについてもいえる。ルターが宗教改革の先駆として讃え、教皇の意による裁判の結果、絞首刑ののち火刑に処された、この凄まじい人物を書くだけの力量が澤井には残念ながら無い。
 近藤昌夫は、そんなことによくも平気だと思う。語学教師だと思うのだが、近藤自身は、ドストエフスキーを研究していると言っているのだから、この厳しい局面を誤魔化さないでなんとか示唆してやれないと近藤自身駄目なのじゃないかな。

4 『文学界』に編集部はないのか?
 そんな、どうにもならない問題の前に、澤井繁男「若きマキャヴェリ」(『文学界』2012-7)に、気になるところがあった。125頁にサヴォナローラからニッコロ・マキャヴェリ宛の手紙が出て来る。「……余は毎日、翌日の説教の草稿執筆に余念がなかった」とある。他のことを考える余裕がなかった、くらいの意味だろうが、「余念なかった」と自分のこととしては普通は使わないだろう。客観的に「○○は……に余念がない」と言うくらいだろう。
 これも変だと思うのは、メディチ家のロレンツィーノがニッコロ・マキャベリに「……自分もサヴォナローラも、所詮、時代の申し子だと言うことを、自戒をこめて君は知らしめてくれた」(135頁)とある。これも、一時の人気みたいなことを言いたいのだと思うが、普通、「時代の申し子」とは、肯定的に使用して、このような否定的には使用しないと思う。
そういえば、同じ135頁「ニッコロが匙を投げてロレンツィーノが画策を委ねた人物の『参謀』役を担おうと決意した頃、サボナローラの運命は急速に転がりはじめていた」も判らなかった。ひょっとして「匙」は「賽子」ではないか。
 ちょっと見ただけで、たまたまではないぞ。たまたまは誰にでもある。ぽろぽろあるぞ。澤井って日本語の感覚危ないのと違うか、と思ってしまうが、語学の先生である近藤昌夫は気にならなかったのだろうか。
 それよりも、これって、『文学界』の掲載作品だが、文学界の編集者が見てはいないということは無いと思うのだが。

5 言いようが無くなってしまったけど
 とにかく、関大がとんでもない状態だということは判った。旧教育学科(現教育学専修か)のも気になるが、とりあえず、澤井繁男と近藤昌夫のひどさに吞まれてしまった。