河瀬真という弁護士の法律感覚・人権感覚

 
 福知山線脱線事故で強制起訴されたJR西日本歴代3社長が無罪判決をうけた事件について、指定弁護士の河瀬真弁護士が控訴するという記者会見を開いたそうである(7日−毎日新聞10月8日)。
 この河瀬なる弁護士の法律感覚、人権感覚は、本当におかしい。この手続きは変である。繰り返し言うことのようであるが、放っておけない。

二 河瀬真は、刑事裁判を遺族の報復に使うのか
 河瀬は、控訴について、遺族の意向を隠さない。というより、むしろ、それが根拠であろう。また、大塚裕史という神戸大教授(刑法)も遺族の意向を尊重したのだろうという談話を載せている。法学部の教授なら、裁判が何のために開かれるのか、きちんと言えないといけない。遺族の意向を尊重して控訴するのを当然のような談話である。
 河瀬真も大塚裕史も、JR西日本の歴代3社長に過失があって有罪になることが被害者の供養で遺族の怨みを晴らすことになると思っているのだろうか。
 また、「証拠全体をあたらためて評価し直せば、別の結論に至り得る可能性がある」と会見で述べ、大塚裕史という神戸大の刑法の教授も「有罪の可能性があるなら、誠意を尽くすべきだと考え、……」とある。大塚の場合、談話だから、そのままではないかも知れないが、刑法の教授がそんなこと、「有罪の可能性があるなら、誠意を尽くす……」って言ってよいのか。刑事事件で誠意を尽くすというのは、「よほど証明できないと、つまり、合理的な疑いを越えて証明できないと、有罪にしてはいけない」ということではないのか。
 刑法の教授だという大塚は、有罪の可能性など、誰にでもあるって教わらなかったのか。
河瀬の言い方は、「解釈の仕方次第で別の結論に至り得る」となる。つまり、見方次第で有罪になる、というのか、これが法律家だと、おそろしい時代ではないか。これが、指定弁護士として検察官の役割をしている「弁護士」である。
 河瀬真という弁護士と言い、大塚裕史という神戸大教授(刑法)といい、「有罪の可能性があるなら………」とは恐ろしいことを言う法律家たちだ。刑事訴訟の原則は「無罪の可能性があるなら、有罪にしてはいけない」ということだろう。こういう弁護士を弁護士会は放置しておくのか。こういう大学スタッフを刑事法の学会はなんとも思わないのか。
 フランツ・カフカ『審判』(光文社新訳では『訴訟』)が現実味を帯びてきた思いである。

三 場違いでの真相究明は、真相究明の妨げになる
 民営化されたJRの社長になった人物に、犯罪となる具体的な作為・不作為が特定できるのか。遺族には、運転士の過失を生み出す条件や構造も知りたいという思いがある筈である。
 それが、社長の注意義務とか予見可能性の問題になると思うだろうか。JR北海道で、国鉄時代ならあり得なかった深刻な状態が進行している。福知山線脱線事故は、あきらかにマル生運動の被害の1つだと多くの人が感じている。
 河瀬真の行為は、マル生運動、労働組合つぶし、民営化の流れで生じた様々な問題を、社長の過失の注意を向けて隠蔽しようとしているのではないかと思ってしまう。
 もちろん河瀬真は、それほどまでは思ってはいないと思う。よく見えていないだけだろうが、やっていることは、隠蔽に手を貸して、刑事司法を崩しているだけである。