関西大学生協『書評』の惨状⑤ないしは罪状……№132にみる関西大学法科大学院教授・那須彰・栗原宏武(名誉教授)の法的リテラシー

一 「綯う裁判員制度」の特集趣旨?
 『書評』№132は、鈴木祥蔵追悼特集の前に、「綯う裁判員制度」という呪文の下に、「栽培員制度推進特集」を「綯って」いた。見当はずれの中北龍太郎弁護士の文は、ひとまず擱いて、那須彰・栗原宏武(当時)法科大学院両教授の論説を検討する。
 最初に、『書評』編集部自体が、この間の、司法制度等に生じた問題について、何の問題意識も無く、理解もしていないと言っておく必要がある。編集部がかかる問題に恐ろしいほど、あるいは無邪気なほど無知であるのは、文を依頼した相手が、「法科大学院」のスタッフであるということである。「法科大学院」設立は、明らかに失策であり、どう処理すべきかということが課題になっているものである。この法科大学院裁判員制度は、司法制度改革審議会の議長であった佐藤幸治京大名誉教授が強力に推進した一連の政策なのである。この那須・栗原の両人は、裁判員制度設置と連なる政策である法科大学院のスタッフとして採用された元裁判官たちである。二瘤(こぶ)駱駝(らくだ)の一つの瘤にもう一つの瘤の話をさせるようなものだ。失策である法科大学院のスタッフに、いかがわしい制度の話をさせているのである。
 編集部は、法科大学院構想も、裁判員制度の意図も理解できないまま、法科大学院のスタッフに原稿依頼したのだと思う。この法科大学院の教授たち(1人は既に名誉教授)は、両人ともに、元裁判官である。法科大学院設立にあたって、実務系の教員を採用することが求められたのである。
 編集部には、少しは勉強してから扱えよ、と言いたいところであるが、勉強することすら頑なに拒絶して、危ないものを自覚なく扱っている。無邪気なのは勝手だが、その痴呆状態が蔓延したようなものをばらまいてもらっても困るのである。

二 元裁判官の法科大学院教授
 元裁判官でも、法科大学院教授は、大学院教育をするのであるから、就任資格として研究業績が必要になる。学校案内の紹介にリストとしてあがっている研究論文は、手続きマニュアルに近いものが数点あるだけである。
 法科大学院の教授たちは、卒業生の7割は新司法試験に合格させすると言って募集し、3割も合格させられない状態をどのように考えているのだろうか。
 『UP』という東大出版が発行しているリトルマガジンがある。その2006年4月号に内田貴が「法科大学院は何をもたらすのか、または、法知識の分布モデルについて」という文を書いている。日本の法学教育が崩壊的危機を迎えていることに対する警鐘である。
 日本版ロー・スクールとして設立された法科大学院は、佐藤幸治京大名誉教授を会長とする司法制度改革審議会が提案した一つの政策で、日本と国民に大きな負担と災いをもたらした。大きな負債を抱えたまま、法科大学院を畳んでしまった学校もある。それはそれとして賢明な判断である。そもそも、そのような危ない案に、全国規模で乗っかっていくこと自体が、日本の大学法学部が知的に脆弱になっていたということである。
 「綯う裁判員制度」に投稿しているお二人である那須彰・栗原宏武は、その失策によって生まれた機関のスタッフである。繰り返すが、巨額の設備投資、人件費が投入され、それに入学者は、卒業生はほぼ新司法試験に合格すると思わされて、人生まで賭けて、廉からぬ学費を支払ってきたのである。国家ぐるみの大暴挙のスタッフであることの自覚はあるのか。制度は出来上がったばかりだから長い目でみよ、などとは言うな。もう既に、多くの災害を抱え込んでいるのである。法律家だったらどう対応すべきなのか。

三 刑事裁判における最も重要なテーマ
 弁護士中北龍太郎は、『書評』№131で、「刑事裁判において最も重要なテーマは『無実の人を処罰しない』ことであり、『疑わしきは罰せず』(「疑わしきは被告人の利益に」)が刑事裁判の鉄則である」(p.83)と述べる。しかし、「無実の人」というのは、処罰される理由などない人なのだから、この言い方は変である。誤審があってはならない、とほぼ同義か。「疑わしきは被告人の利益に」というのは立証の問題で、そして、手続きの問題があるだろう。適正な手続きを経なかったら、有罪とすることができないのである。それは、朝日新聞などが見出しに使い、人々の情を煽る「民意」ごときもので、有罪にされては堪らないのである。那須は、裁判員裁判で「刑事裁判の正統性を保持」することができる(p.57-8)、と書いている。「正統性」ではなく「正当性」と書きたいのだろうが、そのような民「情」をコントロールするため築きあげられてきたのが裁判の歴史なのである。
 同様のなさけないイルリーガル感覚は、栗原のレポートにもある(p.65-6)。二人とも、せめて、日本国憲法第3章「国民の権利及び義務」くらいはしっかり読んでほしい。わずか31ヵ条、だがそのうちの10ヵ条が刑事被告人の権利なのだ。そうだ、ご両人は、元は刑事裁判の裁判官だったのだ。ご両人にとって被告人の人権保障規定は、単なる謳い文句にすぎなかったのか。
 那須は、調書などの証拠を綿密検討することで法廷の審理から「活性」を失わせたことを問題にしている(p.56)。法廷の審理のために制度があるのか?被告人の人権のために法廷の審理があるのだろう。どうして「活性」化しないといけないのだ。本末転倒である。
 栗原も同様のことを書いている。「(裁判員全員がためらいもせず)直接質問をぶつけるなどし、生き生きとした法廷中心の充実した審理が実践された」(p.65)と、この元裁判官法科大学院教授は書いてる。このくだりを見て、気分が悪くなった。『書評』編集部の村井は何ともないのか。あるいは、この愚劣な文を読みもせずに掲載したのか。
 この事件の被告人は、罪を認めている。有罪であることでは、何も争ってはいないのだ。その被告人に、本来何の権限もない者(それこそ、本来正当性を有しない者)が、かわるがわる質問したというのである。いじめの現場で、おまえも一突きくれてやれと共犯関係をつくっていく惨たらしい場面を、元裁判官の法科大学院教授(当時)は、想起出来なかったのか。まさに、被告人の人権は踏みにじられ、人格が嬲りものにされているのである。その人権侵害の場を、この法科大学院教授(当時)は感嘆して目撃しているのである。
 二つのレポートは、被告人の権利を危うくする叙述はあっても、被告人の権利の保証ををどう実現するかについては何もない。この元刑事裁判官の法科大学院教授たちのレポートは申し訳ないが、「不可」の評価をせざるを得ない。否、怒りをもって「不可!!」だ。法科大学院教育の成果があがらない。制度もさることながら、かかる教員のもとでは、法曹教育のさまたげになることこそあれ、法曹教育の成果などあがる筈がないだろう。

四 アホなのか、不勉強なだけか
 那須は、「(我が国の刑事裁判は)99パーセントという高い有罪率が生み出されてきたが、これは、諸外国にも類例を見ないものであると指摘されていた」(p.56)と述べる。これは、那須一人ではない。松尾浩也も言っていたし、佐伯千仞も『陪審制の復活』(第一法規出版1996)で無罪率の減少を述べている。しかし、無罪判決が出されるということは、証拠が充分でない人を逮捕、起訴していたことになる。それは少ないほどよいことではないのか、どうしていけないのかとも思う。
 那須は、「諸外国に類例を見ないもの」という指摘があると書いているが、D.T.ジョンソン『アメリカ人の見た日本の検察制度 ―日米の比較考察』(大久保光也訳、シュプリンガーフェララーク東京株式会社2004)は、当然のことながら無罪判決率の計算方法を問題にしている。つまり、陪審裁判を行った上での無罪率とそうでは無い場合を簡単に比較できないというわけである。制度の似ている韓国やタイでは、日本との格差はそれほど無いとする(291頁)。「日本の刑事手続きの『精密性と厳密性』が『すべて有罪判決の方向を向いている』という結論は間違っている」(296頁)とする。
 D.T.ジョンソンは、言われているほどではないけれども、確かに、日本の有罪率は高いとする。
 しかし、Brian J.Ostrom, Shauna M.Strickland, and Paula L. Hannaford-Agor,“Examining Trial Trends in States Ccourts:1976-2002”Journal of Empirrical Legal Studies 1,no.3(November 2004)のTable 1に見られる1999年の数字では、連邦地裁の刑事事件のFillingsが59,923に対してJury Trialsは3,268であり、州の一般管轄裁判所States Courts of General Jursdictionの刑事事件の場合は、Fillingsが4,924,710に対して、Jury Trialsは54,624である。争って陪審トライアルをうける事件は約1%になる。そのうちの、つまり1%のうちの無罪率が約30%である。尤も陪審トライアルに回らない事件には、有罪認定するもの、争って裁判官トライアルに回るものの双方がある。陪審トライアルに回るものは、全て争っているものである。比較考察の材料にするなら、日本の刑事裁判で非常にまれな争っている事件を対象にしないといけない。
 確かに佐伯千仞『陪審裁判の復活』(第一法規出版1996)も、刑事裁判における無罪率の減少を問題にしている。しかし、一番に問題にしているのは、「現在の証拠の証拠能力の判断と証明力との判断とを区別せずに同じ裁判官に委ね、また罪体(有罪、無罪)の立証と量刑に関する情状の立証とをはっきり段階的に区別しない状態」を改めることだとする(同書「はしがき」)。
 那須彰が語り、栗原宏武が注目しているのは、佐伯千仞が問題にしていることではない。佐伯が、一番に問題にする証拠能力の判断と証明力の判断の区別、罪体の立証と量刑に関する情状の立証の区別など全く意に介しない、むしろ、陪審でしてはいけないことを裁判員でやろうとしていることを那須は語り、栗原は注目しているのである。戦後、ほぼ半世紀の間、願ってきた老大家の思いなど、この元裁判官法科大学院教授たちは、一顧だにせず、踏みにじっているのである。

五 壊れていた法科大学院教授たちの法学的常識、喪くなっていた『書評』の意義
リンチもどきのことを、関西大学法科大学院のスタッフが称揚するとは、なんとおぞましい光景であるか。判っていると思うが、人権を侵害する義務など絶対に無いし、人権を侵害するような民主主義は、あり得ないのである。
 栗原は、学生諸君は「裁判員になる機会を得たときには、進んで参加のうえ充実した心境で国民としての義務を果たすことができるよう、日々自己研鑽に努めて将来に備えて貰いたいと考えている次第である」と述べる。悲惨な軍隊からの召集令状を待つ若者に告げる言葉に酷似している。そういえば、憲法教授吉田栄司は、関西大学第1学舎第1号館千里ホールで、戦後、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会が設置されたこと述べ、「ともかく、この松本委員会において、実は旧憲法の兵役の義務規定の改編に際して、陪審員就任義務を前提に役務の義務として残すべきだとの議論がなされていたということを、まずは指摘したく思います」と文字どおり叫んでいる(『ノモス』№23,p.107)。
 吉田にすれば、「役務の義務」だったのだ。それで合点がいったのは、吉田が、その年の5月に、「国民の参加」ということで、現今の投票率の低下を嘆いていたことである。投票の「義務」の不履行を嘆いているようだったので、良く覚えている。
 三谷と佐藤で、少々ニュアンスが違うが、一致しているのは、国民動員への関心である。それは、適正な刑事裁判が行われることでもなく、刑事被告人の権利でもなく、裁判に国民を動員することなのである。そこで、戦前の陪審のように、実際にはほとんど開催されないようでは困るのである。アメリカでは、事件数の99%で陪審裁判は開かれないのである。佐藤幸治は、この実態を知っていた筈である。1%では、「動員」にならないのである。吉田の言う「役務」の実質をつくれないではないか。
 かつて関西大学を代表する存在であった法学部は、このとんでもない制度の推進母体に成り下がっていた。本来、このような問題を論評するものとして存在意義をもっていた『書評』は、国民の「役務」を遂行せよという宣伝に使われるようになっていた。それが、なんと鈴木祥蔵先生の追悼特集号だった。