吉本隆明的思考の一陥穽―吉本共同幻想論


 吉本隆明追悼の企画がちらほら見ることができるようになった。
 意外と、あまり面白くない。「吉本隆明論」は、吉本隆明が、「丸山真男論」を書いたときのようにはいかない。
 ただ、とりあえず、吉本の共同幻想論の問題は、素朴な経済決定論批判の誤謬例として、自省の契機にもなりうるものとして考察する必要がある。
 吉本は、『天皇制の基層』として刊行された赤坂憲雄との対談で、赤坂が明治天皇制の説明、つまり、赤坂が、吉本の「万世一系天皇の帯びている呪力の長い事件性」を否定し、現在の天皇制にまつわる儀礼などは、明治の作為であると述べるのを聞くことになる。吉本は、激しく赤坂の説明を受け入れることを拒絶した。吉本がそのとき言ったことは、それとしては意味が判らない。「僕(吉本」はいまの赤坂さんのお話をうかがっていて知識的に得るところがあるけれども、それ以上になんら得ることもない」という。それは「知識」で、「それ以上にはない」というのは、自分の行動原理になるようなものになってこないということだろうか。
 つまり、吉本は、戦争中、絶対的なものとして帰依した天皇が、そんな、たかだか、80年になるかならないかのものである筈がない、ということなのだろう。「もっと畏怖する存在」である筈だ、というわけである。その作為後100年にも満たない畏怖する存在こそが「共同幻想」なのである。神山茂夫が、近代的粉飾をとろうとも古代的氏族精神に貫かれているとするなら、それは、まさに共同幻想として吉本などが誑かされた、あるいは、積極的に幻想をみようとしただけである。現実には、近代的な政治制度構想を基礎にして、古代的氏族的粉飾を、近世末期の国学などによりながら纏ったものなのである。


 1970年、神津陽『蒼茫の叛旗』が刊行され、多くの読者を獲得した。これは、ブント三多摩地区委員会機関誌『叛旗』に連載された文がもとになっている。一般読者も対象にして、書き上げられているが、もとは政治論文である。その論文みらモティーフに、吉本隆明の知識人・庶民論それに共同幻想論の影響が大きい。その1970年に、叛旗派批判の一環として、吉本隆明の、柳田国男「常民」ばりの「庶民」観念の超歴史性が攻撃材料になった。その時代の文学者が、文学の表現として、庶民像を汲み入れていくのは結構なのだけれど、例えば、柳田国男の「常民」など、日本近世社会を前提としないかぎり、いくら幻想であるとしても成立しえないのである。


 1978年刊行の網野善彦『無縁・公界・楽』(平凡社選書58)は、それより先の1974年刊行の阿部謹也ハーメルンの笛吹き男 - 伝説とその世界』(平凡社)とともに、7-80中世史ブームの象徴的著書であった。網野は、その「はしがき」で、かつて都立北園高校に勤務していたころ、生徒から「あなたは、天皇の力が弱くなり、滅びそうになったと説明するが、なぜ、それでも天皇は滅びなかったのか。形だけの存在なら、とり除かれてもよかったはずなのに、なぜ、だれもそれができなかったのか」と毎年のごとく、時代の転換期の胴乱の説明をしているところで質問されたことを述べる。一応のことを述べ、質問者を黙らせることはできたが、網野自身の中に,納得し難いものが根をおろしていったという。


 網野も、実証的な考証を重視するのであれば、古代の天皇制と中世の天皇制は、全く異なるものであることを述べて、説明を試みる必要があった。大嘗祭を全くしなくなった天皇など、これは、古代にあった天皇制からは考えられない。仏式で行われていた天皇家儀礼を無くしてしまったということは、もう形式の上でも、かつての天皇ではないだろう。 つまり、吉本がいうような「歴史的な現存」など無いのである。網野が、いろんな知識を出して、高校生には対応しえたが、自身納得できなかったのは、網野が、天皇制を「歴史的な現存」という思いから抜け出ることが出来なかったからである。
 吉本隆明にとっては、天皇は「畏怖する存在」だったかも知れないが、大陸侵略を企てた連中や、畏怖する存在としての天皇の信頼を失ったとして総理を辞した田中義一の周辺のエリート軍人は、天皇の意向など無視するばかりか、臣下のやることにとやかく言う天皇など、名君とはいえないと批判した。天皇は、東方会系の政治家や軍人にとっては、畏怖する存在ではなく、利用すべきものだったのである。
 網野も、天皇制が、歴史的現存であることを前提としていた限りにおいて、吉本と同様の「幻想の囮」になっていたと言える。