橋瓜大三郎の追悼文になっていない「マルクスVS.吉本隆明」(中央公論May2012)


 橋瓜大三郎という東工大教授は、毎日新聞でも吉本隆明追悼の鼎談をしていたが、その鼎談でも、とりたてて記憶に残るような発言はしていない。中央公論の橋瓜の文の後に、橋瓜が『永遠の吉本隆明』なる著書を出版していたことが付記してある。
 中央公論の追悼文は、わずか4頁であるが、「再び言おう。吉本隆明氏の仕事は、時代をはるかに越えていた」とある。どうやら、橋瓜の著書『永遠の…』と同じ趣旨のようである。そういえば鼎談でも、同趣旨があった。1948年生まれの社会学者だという橋瓜は、あまり勉強もしていないようだが、吉本隆明の著書もきちんと読んではいないようなのである。
 というのは、最初に「マチウ書試論」を話題にしている。「教義(解釈)のわずかな違いがイデオロギー対立となって、人びとの共存をむずかしくする」などと、この『永遠の吉本隆明』の著者は、何を言っているのか。このエッセーで吉本が提出し、多くの人をうったのは、「関係の絶対性」だろう。言い換えたら、共存あるいは共同性の根拠だ。実は、これこそがキリスト教世界宗教になりえた理由なのだ(尤も、吉本自身のその意義の自覚がいかほどであるかという問題が少し残る)。とにかく橋爪は、普通はやらない、さかさま読解(要するにとんでもない誤解)から始めている。
 次に『言語にとって美とは何か』にふれている。橋瓜は、例えば「記紀万葉の古代歌謡の世界」などと書いている。少しは、吉本の著書を読んで書けよ、と言いたくなる。吉本は西郷信綱の研究も使っている。吉本に『古代歌謡論』という作品もあるだろう。橋瓜は読んではいないのではいないのか。つまり、万葉集の詩は、漢字・漢詩の圧倒的な影響のもとにつくられたものだと書いているだろう。つまり、文学が歌われるもの、あるいは踊り歌われるものから、書かれるもの、書くものになったことをを言っていた筈である。注文の枚数に制限があるから、こんな寸胴表現になるのかと思えば、「西欧の諸言語は、数百年前に成立したばかりで、このような仕事はなすべくもない」と言っている。明治以降は歴史ではない、と言った日本の歴史家がいたと聞くが、それにも似た話である。
 そして『共同幻想論』のことに触れて、「個の精神世界(個体幻想)と国家(共同幻想)とはメビウスの帯のようで、連続だが逆立するというのだ」という。吉本のモチーフは、連続しないということの筈だ。「逆立ち」ということは言っている。それは、もっと具体的なことで、国民の多数の反対が、少数基盤の政府に抑圧されてしまうような具体的な「逆立ち」を言っているわけで、「個体幻想と共同幻想は逆立する」といった一般的なこと言っているわけではない。マルクスが『共産党宣言』で、革命の正当性として述べたこととほぼ同義である。社会学者橋瓜には、しっかりと理解してもらわないといけない。逆に今は、「多数の暴虐」の横行が問題である。形式的には、逆立ちがないようになり、「多数」による暴政が行われるという、厄介な情況がある。社会学者橋瓜が真剣に取り組むべき問題である。
 吉本は、その後も、評伝など興味深い仕事を続けたが、理論的には、『共同幻想論』でウィークポイントが露出してきたようであった。


 橋瓜はホッブズと吉本を対比して、マルクスと違う地平を獲得したのではないかという「幻想」を浴びせている。ホッブズは「普遍的教会」であるカトリック教会にに対して、プロテスタント神学を駆使して論争したとする。すると「救済する/しないは、は神の権限で、人間(のあつまりである教会)は手が出せない。だから『普遍的教会』は存在できない。ゆえに、救済の日まで人々の地上の生活に責任をもつ、主権国家が必要になる。『契約』がそれを生み出す、というのがホッブズの独創的な主張だった」と橋瓜は述べる。
 「カエサルのものはカエサルへ」と『新約聖書』にあった筈である。世俗のものは、世俗のものの為すべきことである。「契約」は確かに、ホッブズによって新しい意義を見出されたが、決して唐突ではなかった。そして、これは、教会の話でもプロテスタント神学の話でもなく世俗の政治的原理でのことである。
 また、吉本隆明の対比で語られていることなので、敢えていえば、「契約」というのは、イデオロギーのような「共同幻想」ではなく、「関係」的なものなのである。橋瓜のこの何ともいえない文には多重の錯誤がある。
 橋瓜は「吉本隆明の思想とホッブズを、再び対比して」みている。つまり、ホッブズは、自然状態を「よくないもの」と想定したが、吉本は「よいもの」と想定したとする。橋瓜は、吉本が「権力のない自然状態」を「よいもの」と想定したと書いている。これでは、いわば「よいもの」を「よいもの」としただけの同義反復ではないか。また、それを言うなら自然状態を肯定的に考えるルソーとの対比はどうなるのか。


 「思想は自分の根拠と闘うものでなければならない」と藤本進治が言っている(『マルクス主義と現代』1967、はしがき)。吉本隆明も「マチウ書試論」や「転向論」での闘いは、敗戦を経た自身の存在自体の問題であった。戦後の“擬制の終焉"にいたる政治過程での「丸山真男論」もそうであった。そのとき「思想」となっていた。
 私たちが、吉本隆明を考えるときは、そのような吉本隆明である。橋瓜が言う「永遠の吉本隆明」など、少なくとも私には存在しないし、おそらく、そんなもの、橋瓜にとっても「虚偽」だろう。