吉本隆明が亡くなって一週間


 吉本隆明が、3月16日に亡くなって1週間経った。吉本の死は、東日本大震災発生後1年を待っていたかのような時期になった。吉本は、辺見庸との対談で、昭和天皇は「業」の強い人だった、竹内好も業の強い人だったとして、竹内の弔辞を読んでいた増田渉が倒れたことなどを語っていた。その脈絡で行くと、吉本は、巨大な災害をみて原発事故の惨状をみてから亡くなったようで、業の強い人の反対サイドに立つ人のようでもある。
 亡くなった吉本を憶う文としては、神津陽が「神津塾」に書いているものと加藤典洋が19日の毎日新聞夕刊に書いているものを見た。新聞には梅原猛のコメントもあったように思う。なぜ梅原?と思って、そういえば、どこかの雑誌で、梅原と吉本との対談があったことや、その雑誌を見たい気持ちがまったくしなかったことを思いだした。
 神津は、一昨年の吉本のE-TVでの状態について、厳しい見方を文にしていたので、吉本とは、もう縁遠くなっていたのかと思っていたら、定期的にかどうか、少なくとも、全く途切れるということ無く、吉本宅を訪れていたらしい。神津は、自分が向き合っている現実の社会問題についての見解をストレートにぶつけていたらしい。吉本は、自分の足指の壊疽の状態などを見つめながら現代科学の可能性への思いを得々と語っていたらしい。神津は、吉本が相手の話に構わずに、自分の身体に収斂して話していたことを綴っていた。

 吉本隆明の書いたものを、あまり読まなくなったのは、やはり、70年から、71年のころと思う。ほとんど興味を失ったのは、吉本が、ずっと若い世代の書くものに対する理解を表すようになったころのように思う。
 面白くなかったのである。吉本が、大家というか、良い爺さんになって、いいよ、いいよ、なかなかやるね、という印象で、古い世代のおっさんが若い人に媚びているのにも似ているのが不快だった。
 しかし、連合赤軍事件で全く孤立無援の思想的リンチ状態下にある永田洋子の獄中での営為を評価し表現し得たのは、私の知る限り吉本隆明だけだった。永田への偏見には対する吉本の言辞には憤りが見られた。

 吉本隆明の書き方を真似する者は、結構多かった。真似の仕方はいろいろだった。吉本には、その後、批判的になり、そのことを表明している神津陽も、その影響を持ち続けている。
 その人気は、徒手空拳で、全国政党や、アカデミズムを代表する人物と渡り合っている姿勢と気概によるものであると、私には思われる。権威を相手に、その権威を圧倒する論説は、私たちを魅了した。吉本自身、ボクシングでいえば、大ジムである帝拳に対する、弱小の、会長と選手1人、しかし、それが世界チャンピオンである金平ジムに、あるいは、その海老原博幸に自らを擬した(しかし、いわば帝拳である東大にもファンは多かった)。
 そのような格闘は、誌や詩人論など文芸評論から、種々の情況への発言とともに、「マチウ書試論」「丸山真男論」でも”ファン”を熱狂させ、「カール・マルクス」や「マルクス紀行」まで著した。
 面白いのは、『言語にとって美とは何か』『共同幻想論』『心的現象論序説』といった「体系的」ともとれる書物も出版したことである。
 「マチウ書試論」は、吉本の新約聖書解釈である。「マタイ伝」としないで、「マチウ書」としたのは、教会から出されている日本語版の日本語を使いたくなくて、フランス語版から自分で訳した言葉で書いた。自分の言葉で綴りたかったからだと言う。教会や聖職者の教義の体系に対抗してイエスの話をするのである。
 丸山真男といえば、東大というより、日本を代表する知識人であり、アカデミズムを代表する人である。吉本の「丸山真男論」は、一橋新聞に連載されたが、後、何回か編集され、今、「柳田国男論」と併せて筑摩学芸文庫に入っている。これは、『現代日本の革新思想』(梅本克己・佐藤昇・丸山真男の鼎談)で、丸山が「ただもう少し個々人を見てみると、こういうラディカリズムは政治的ラディカリズムというより、自分の精神に傷を負った心理的ラディカリズムが多いですね。……自信と自己軽蔑のいりまじった心理に発している」と言ったことに始まる。じゃあ、「丸山真男」は何だ、というわけである。だから、「丸山真男論」は、丸山真男批判ではない。むしろ、丸山真男の学問的な業績を評価している。吉本は「おれの丸山真男論が、丸山真男の方法、思想、その発想の根拠を押さえきっていることは、丸山真男自身がよく知っているはずだよ」(「退廃の名簿」1965.6)と言った。批判ではないが、凄まじい格闘だった筈だ。とくに戦時、吉本たちが勤労動員中だと思われるころに書かれ、戦後に刊行された『日本政治思想史研究』にせまる書き方は見応えがある。吉本は「押さえきった」と書いているが、私たちは、丸山を「押さえ込んだ」と半ば誤解した。

 吉本は埴谷雄高と、講演に行った道中で、埴谷に、罵倒する言葉を慎んだ方がよいと助言されたことを書いている。これは、すぐに我々も真似をする。罵倒は論理なしにやっつけた気になってしまう。また、橋川文三も、吉本が丸山真男を「悪しきヘーゲリアン」と書いているが(これは丸山が言ったことだが)、若い人は、真似をしないようにと書いている。
 いつからか、権威や大組織に挑みかかるような吉本の姿をみなくなった。偉くなったと思った。かつては、みんなが知らないことを、さすがによく見ていると思ったことが、そのうちテレビなどの人気者が、なぜよく売れているのか、人気があるのかという解説や理解に務めるようになったようだった。かつて、姫岡怜治(青木昌彦)の共産主義者同盟第三次綱領草案を引用して、自分が共闘できるのは、彼らだけだと評価していた。世間では知られていたかったのを、吉本は、いわば発掘していた。後の吉本は、テレビなどを見ながら、風俗を「解釈」し「受容」しようとしているようだった。評価と挑戦がちぐはぐな印象をうけた。ちぐはぐでなければショート・カットしているように思えた。
 1980年代の「反核」署名運動に対する批判も、チェルノブイリ事故で「反原発」として盛り上がったところで、異論をなげかけた。大勢の傲慢な動きに対する挑戦のようにも見える。しかし、単なる挑戦ではなく、吉本には、黙ってはおれないほど、愚かに見えたのであろう。日本の知識人の科学に対する理解のないことを問題にしていた。吉本は、かってあれほど、科学の進歩に将来を託していて、戦後はまさに、その科学に対する信頼でやってきた筈がどうして、いきなり「エコロジー」なのだ、と言っているようであった。つまり、吉本によれば、戦後のいわば総転向の再現を見たようなのだったのかも知れない。反核署名する人で、「科学の子」『鉄腕アトム』を愛読しなかった人は希だろう。今でも鉄腕アトムは否定されていない。その科学主義を、いっきに運動で捨て去るというのは判らないという、それはそうだと思う。それは、原発の安全性について、本当の検証がなされていないということの裏表である。つまり、吉本は、もっと科学主義のこととして、安全性の問題を言うべきであったと思う。「科学」の問題よりは、「科学信仰」の問題にすべっていったように思う。「やがて科学が、安全性もエネルギーも解決する筈」と、それなのに、どうしてそう簡単に「信仰」を捨てるのだ、という疑問が、吉本だったと思う。結果からすれば、「科学」が極めて不徹底だった。安全性の問題でも、安全性に関する科学的思考は不徹底だった。だから「信仰」に、俗な意味での「信仰」になっていたのだ。
 考えれば、吉本は、「どうして簡単に科学信仰を捨てるのか」と問題にしたが、信仰の問題ではなく、もっと「科学」を求めておくべきだった。「科学」の問題として、日本の核研究の最前線の実態をみれば、どんな政治と「信仰」に支えられているかが判ったはずである。吉本隆明のような人が敢えて言うのだったら、運動ではなく、科学と「信仰」を見直す一つのチャンスだった。
 同様に、吉本は、今まで、土俗宗教や,親鸞道元を読み解きながら、オウム真理教問題において、現世利益の土俗宗教と救済宗教の区別ができていなかったのか、そんなことはない筈だと思わないといけないのは情けない。
 そういえば、吉本が田川建三の著書のイエス像は、現存する中東の青年の姿に重なる、と書いていたのは、厳しい評価と理解していたが、そうではなく、評価だったのか。 

 吉本隆明ETV特集で姿を現していたのは、三年前のことだったらしい。最高の表現は沈黙だとか、悟りを開いた禅坊主のようなことを言っていた。絶対矛盾の自己同一とどう違うのか。こんなのは見たくなかったが、それでも、もっとミイラのようになっても、生きながらえて欲しかった。
 その話を聞いたとき、埴谷雄高が最後まで、「自同律の不快」を抱えていたのと違うなあというか、逆だなと思った。