(2)トクヴィルの「政治制度としての陪審制」は、刑事陪審ではなく「民事」陪審*1

 三谷氏は、「トクヴィルによりますと、陪審制は民主主義的統治の一貫である。人民主権の一形態である。したがって、その陪審制というのは単に訴訟の運命に影響を及ぼす以上に、社会自身の運命に影響を及ぼすというふうなことをトクヴィルは言っているわけであります。」と述べている。三谷氏は、トクヴィルが何を根拠に、このようなことを言っているのか、考えないのであろうか。トクヴィルは、次のように述べる。

  陪審制は衡平原理の実践を人々に教える。各人は隣人を裁きながら、いつか自分も裁かれるかもしれぬと考える。民事訴訟における陪審の場合、特にそうである。刑事訴追の対象になるかもしれぬと恐れる人は滅多にいないが、訴訟の当事者には誰でもなりうる。
陪審制は各人に自分自身の行動の責任を回避せぬことを教える。これは雄々しい気質であり、それなくして政治的特性はありえない。(
一八八頁)
 
 つまり、トクヴィルが、民主主義とか、人民主権の一形態とかいう場合、それが自らに返ることを想定するからである。そして、それは、民事訴訟の場合なのである。三谷氏は、全く見当違いでトクヴィルの言説を引用し、その齟齬に気付かないふりをしているのであろうか。あるいは、トクヴィルなど、それほど読んではいないのだろうか。
 よく似た不審な例は、当時東京大学社会科学研究所教授であった利谷信義氏の叙述にもある。

  ……成文法の中に答えが見当らないときは、だれかが、決定しなければならない。そして、この決定は、形ははっきりしていなくとも、平易で素朴な正義・公平・人道主義に基づいている方が、ほかのものよりも優れているであろう。……なぜなら、人間の行動に関しては一般人の考えや理想の方がずっと簡明直截だからだ。……*2
 これは、「一般人」を司法へ参加させよ、という趣旨の法律家の文章ということであるが、法律家がこのようなことを言っては困る。利谷氏の文は、大正末期に成立し、昭和の初めに施行された陪審制に関してのことであるから刑事裁判に関して述べられたものであることは確かである。そうすると、一般人としても法律家としての言説としても、「成文法の中に答えが、見当たらないときは、だれかが、決定しなければならない。」とは全く不適切である。この叙述は、民事事件を想定したものを下敷きにしてなされたものであろう。刑事事件であれば、成文法になければ無罪であし、そもそも訴訟にならない。
 三谷氏は、トクヴィルが民事陪審を念頭において述べていることに、無理に付会されていたのであるが、そのような不適切な理解は、裁判というものについての基本的な理解さえあれば、避けられた筈である。利谷氏の不適切な叙述にも同様のことが言える。民事陪審についてのことを無自覚に援用することは、逆に刑事陪審についての誤解とも連動する。
 利谷氏は、戦前の陪審批判として、次のような叙述*3をしている。

  第四に、裁判長の説示に対して非常に強い力を認めました。裁判長の説示とは、裁判長が陪審員に対して証拠と事件の筋道について説明することです。したがって、それは陪審員が評決をする場合に大きな影響を及ぼします。しかし説示に対する被告側からの異議の申し立ては許されないことになっています。

 「説示」とはsumming upの訳である。裁判官が、陪審に、証明すべきことと、その証拠を要約説示することで、これがないと、「陪審」のしようがない。証明すべきこと、と証拠とすべきもの、証拠とすべきでないことを、説明できないと、裁判にも陪審にもならない。
 陪審制の要ともいうべき手続である。この「説示」があるからこそ、無作為抽出された人も、事実は「証明された」「まだされていない」の判断ができる、というわけである。逆に、「陪審」というのも、それくらいのことで、それが合理的に運用されれば、とくに問題はない。問題が生じるのは、論理的に進めれば、何の問題もないものが、偏見の介在により、あるいは「多数の暴虐」による弊害が目に付くことにもなることである。だから、アメリカでもイギリスでも、陪審を「受ける」権利として遺しているのである。
 戦前日本の陪審の「説示」を、戦前日本の陪審固有のように語るところに、陪審のついての大きな誤解がある。陪審を「司法への市民参加」などと歪曲するもとがある。歪曲のもとになる誤解がある。もし、裁判員として、司法に「参加する」のが権利なら、どうして強制されるのだろうか、極めて非論理的である。
 問題は、刑事陪審を「司法に参加して……」などとイベントに仕上げる「政治的意図」なのである。
 以上は裁判員制度が、如何にもお粗末な理論的根拠をもとに、あるいは、古典的著述を、冒涜ともとれる踏み台のように利用して提起されたものであるかを見てきた。これだけでも、三谷氏や佐藤氏がされたことは問題であると思うのであるが、さらに問題がある。それを次章以下で検討する。


1 かつては、三谷氏自身が、トクヴィルは「とくに民事裁判における陪審制の政治制度としての重要性に着目している。」と述べているのである。(三谷『政治制度としての陪審制』三三頁以下。)
2 利谷信義『日本の法を考える』(UP選書、東京大学出版会 一九八五)「司法に対する国民の参加」一三六頁。これは、利谷氏が『岩波講座現代法6現代の法律家』(一九六六)で「司法に対する国民の参加 ―戦前の法律家と陪審法―」として書かれたものをもとにしている。
3 利谷信義前掲『日本の法を考える』一三一頁。