(1)J・S・ミルが、トクヴィルより受け継いだものは「多数の暴政」批判

 シンポジウムでの三谷氏や佐藤氏のトクヴィルに言及した発言は、論理的でもなく整然ともしていない。錯乱にちかい混乱がみられる。三谷氏は、「こうしてトクヴィルは、陪審制が、一方で民主制の本質的部分を体現しているということを認めるわけでありますが、他方でトクヴィル陪審制は単に民主制の体現ではない。それは貴族制的要素、アリストクラティックな要素と結びついているとみなしました。」とし、この脈絡で、「市民に対する陪審制度の教育的な意味を強調」(『ノモス』二三号、八六‐七頁)したとする。確かにミルは、J・ブライスの「地方自治は民主主義の学校」に似た文脈で陪審制に言及しているところがある。しかし、トクヴィルの触発によってではない。陪審制においては、アメリカより遙かに長い伝統をもつイギリスの思想家ミルは、どのようなことにおいて、フランス人のアメリカ体験に触発をうけたのか。次に掲げるのは、一八三五年のトクヴィルアメリカのデモクラシー』(松本礼二訳岩波文庫第一巻下)第1部第6章の「多数の暴政TYRANNIE DE LA MAJORITÉ」の一部である。 

  合衆国で組織されたような民主主義の政府について私がもっとも批判する点は、ヨーロッパで多くの人が主張するように、その力が弱いことではなく、逆に抗しがたいほど強いことである。そしてアメリカで私がもっとも嫌うのは、極端な自由の支配ではなく暴政に抗する保障がほとんどない点である。(岩波文庫版第一巻下。以下同じ一四九頁)
  合衆国で一人の人間、あるいは一党派が不正な扱いを受けたとき、誰に訴えればよいと読者はお考えか。世論にか。多数者は世論が形成するものである。立法部にか。立法部は多数者を代表し、これに盲従する。執行権はどうか。執行権は多数者が任命し、これに奉仕する受動的な道具にすぎぬ。警察はどうか。警察とは武装した多数者にほかならぬ。陪審員はどうか。陪審員は多数者が判決を下す権利をもったものである。裁判官でさえ、いくつかの州では多数によって選挙で選ばれる。どれほど不正で非合理な目にあったとしても、だから我慢せざるを得ないのである。(一四九‐五〇頁)
  ジェファソンはまたこう言っている。
  「執行部は、われわれの政府のなかで、私が懸念する唯一の対象でははなく、ほとんどその主要な対象でもない。立法部の暴政こそ、現在もっとも恐るべき不安材料であり、今後も長くそうであろう。執行部の暴政がまた戻ってくるのは遠い将来のことであろう。」
  私はこの問題に関して誰よりもジェファソンを引用したい。彼こそは民主主義がかってもった、もっとも有力な使徒だからである。
(一六四頁)
 

 二四年後の一八五九年、J・S・ミル『自由論』(塩尻公明・木村健康訳 岩波文庫)では、ミルは、トクヴィルから、この「多数の暴虐」に刺激を受けたことが判る。次はミルの文である。

  今や、「自治」と言い「人民の人民自身による権力」というような文句は、真相を現  さないということが感づかれて来た。権力を行使する「人民」は、必ずしも、権力を行使される人民とは同じものではない。また、いわゆる「自治」なるものは、各人が彼自身によって統治されることではなくて、各人が他のすべての人々によって統治されることである。さらにまた、人民の意志は、実際には人民の最多数の部分または最も活動的な部分の意志だということになる。すなわち、大多数者、または自己を大多数者として認めさせることに成功した人々の意志を意味している。それ故に、人民は人民の一部を圧制しようと欲するかも知れない。そして、かような圧制に対して予防策の必要であることは、他のいかなる権力の濫用に対する場合とも異なるところはないのである。それ故に、個人を支配する政府の権力を制限することは、権力の保持者が社会―すなわち社会における最強の政党―に対して正式に責任を負うているときにおいても、毫もその必要性を減ずるものではない。このようなもののみかたは、思想家の知性にも、またそもそも民主制と相容れない現実の利害―もしくは利害と思い込んでいる―をもっているヨーロッパ社会の有力な諸階級の性向にも、等しく訴えるところがあったために、何らの困難もなしに確率された。今や政治的問題を考える場合には、「多数者の暴虐 "the tyranny of the majority"」は、一般に、社会の警戒しなくてはならない害悪の一つとして数えられるに至っている。/多数者の暴虐は、他の諸々の暴虐と同様に、最初は、主として官憲の行為を通じて行われるものとして恐れられたし、今でも通俗にはそうである。しかしながら、考えの深い人々は、社会自らが暴君であるときには、―社会を構成している個々人の上に集団としての社会が君臨しているときには、―暴虐遂行の手段は、社会がその政治上の公務員の手によって行ないうる行為のみには限られていない、ということを覚知した。(一四‐五頁) 

 ミルの文には、トクヴィルのtyrannie de la majoitéが直訳されている。トクヴィルアメリカのデモクラシー』に反応したミルを考えるにおいては、まずこの箇所を擱いては考えられないところである。「裁判員制度の導入に際しても、それが憲法に違反するという議論はもはやほとんどみられなかった。」(浦部法穂憲法学教室』前訂第二版、二〇〇八、日本評論社)と述べる憲法学者がいる。これこそ多数者の暴虐の例である。
 佐藤幸治氏はシンポジウムで次のように語っている。

  この裁判制度の導入については、憲法に規定がないとか、憲法の制定過程に照らしても正当化されないとか、裁判官の過半数の意見と異なる意見を判決の基礎としなければならないのは憲法七六条の裁判官の独立に反するとか、被告人が裁判員裁判を辞退する権利が認めないのは憲法上許されないとか、裁判員の負担は憲法十八条の禁止する「その意に反する苦役」に当たり違憲であるとか、およそ日本国憲法上職業裁判官のみが裁判をなしうるのであり、精々明治憲法下の陪審制のごときが許されるのみという立場に立っての違憲論が散見されます。……(九三頁)

 憲法上の規定を引き合いに出すまでもなく、刑事被告人にとって、陪審ですらない、裁判員なる素人に裁判されることは、苦痛であることは、尋常なる想像力があれば、誰しも想像できることである。佐藤氏の発言は、非常識と言わざるを得ない。というのは、佐藤氏が、憲法との関係であげておられるようなことは、法案とされる何年も前に、提案者の一人である松尾浩也氏によって言及*1されているところなのである。通常の法学者の感覚であるならば、問題にしうるところなのである。その意見を「散見」として無視するところは、まさに、トクヴィルが問題にし、ミルが継承して問題にした「多数の暴虐」に他ならないのである。
 トクヴィルは、「陪審員はどうか。陪審員は多数者が判決を下す権利をもったものである。」と言い、ジェファソンが「執行部は、われわれの政府のなかで、私が懸念する唯一の対象でははなく、ほとんどその主要な対象でもない。立法部の暴政こそ、現在もっとも恐るべき不安材料」だと言っていることを紹介している。トクヴィルが言ったときは十九世紀の前半、ジェファソンはそれより前の人なのである。
三谷・佐藤の両氏は、自分たちの言説の根拠にトクヴィルやミルを引き合いに出しているが、トクヴィルやミルの言説は、まさに三谷・佐藤両氏の言説や政治的行動を弾劾する根拠にこそ、読まれるべきなのである。
 かかる多数の暴政に対する楯ともいうべきものとして、トクヴィルは何を想定しているのであろうか。

  司法権の第一の性質は、どんな国民にあっても、裁定者の役をつとめることである。係争がなければ、裁判所の動く余地はない。訴訟がなければ、裁判所の出る幕はない。ある法律に関して係争が生じぬ限り、司法権はその法律に関わる機会をもたない。その限り、司法権は存在していても、法律を見てはいない。裁判官が何かの訴訟に関連して、関係の法律を攻撃するとき、彼は裁判官の権限の枠を拡げることになるが、その外に出ているわけではない。彼にしてみれば、当該訴訟に裁きをつけるために、その法律をなにほどか裁く必要があったのだからである。特定の訴訟から出発することなく、法律に判決を下すとすれば、そのときこそ裁判官は完全に己れの領域を逸脱し、立法権の領域に侵入する。(『アメリカのデモクラシー』松本訳岩波文庫第一巻上一五八頁)
  司法権第二の性質は、一般原則でなく個々の事案に判決を下すということである。  ……  司法権の第三の性質は、要請を受けたとき、すなわち、法的表現を用いるならば、提訴されたときしか動けないということである。この性質は他の二つほど一般にあきらけでない。しかしながら、例外はあるにしても、私はこれを本質的とみなしうると思う。その本性上、司法権はには行動力がない。その活動を促すには、これに働きかけなければならない。犯罪が摘発されるから、司法権は犯人を罰する。不正を正せと要求されるから、これを正す。法令の解釈を求められるから、これを解釈する。だが司法権が自ら乗り出して犯罪者を追及し、不正を探し、事実を調べることはない。もし司法権が自ら主導権をとって法の検閲者となるとすれば、司法権はこの受動的本性をなにほどか損なうことになろう。
  アメリカの裁判所に認められている違憲立法審査権は、固有の限界を出ることはないが、政治的合議体の暴政に対してかつて立てられた防壁の中でも、もっとも強力なものの一つである。(一六七頁)

 「政治的合議体の暴政に対してかつて立てられた防壁の中でも、もっとも強力なもの」として、司法権の一つの機能をあげている。司法制度審議会は、司法権がもっとも警戒する動きをしているようである。

1 松尾浩也「司法制度と国民参加」【講演】(『エコノミア』52-2、2001-11(横浜国立大学経済学会)