五 基本的人権と日本国憲法

 呆れるほどの拙劣な論理が、大手を振ってまかりとおっていると言わざるを得ない。司法に対する参加は国民の権利だと言う。アメリ憲法修正第六条では、陪審裁判をうけるのは、刑事被告人の権利として規定している。国民が参加する権利ではない。
 吉田栄司氏は、シンポジウムの鼎談後半部「日本国憲法下の裁判員制度」の冒頭において、松本烝治が委員長を務める憲法問題調査委員会案について、次のような発言をしている。

  ともかく、この松本委員会において、実は旧憲法の兵役の義務規定の改編に関して、陪審員就任義務を前提にして残すべきだとの論議がなされていたということを、まずは指摘したいと思います。(一〇七頁)

 吉田氏は、元関大学長であった松本が委員長を務めた松本案が陪審に触れているということを言いたいことに気をとられて、これが兵役の義務とセットになっていることを自分で言っているという意識がないようである。確かに、陪審員就任義務は兵役の義務に類比しうべきものなのである。
 シンポジウムの初めに、トクヴィルやミルの名を出しながら、裁判に関係させることで、国民として自覚するための教育が話題になっていたのは、兵役によって国の兵士意識あるいは、国を守る気概を涵養することの類比がなされていたのだろうか。
 さらに問題は、裁判員などとして出頭することを「権利」として喧伝していることである。当然のことながら、陪審員就任を権利と考えている国などはない。日本でもそうでなかったことは、吉田氏が無自覚に口にしたとおりである。
 吉田氏は、司法制度改革審議会の「司法に参加する権利」の論調に乗っただけかも知れない。また、戦後久しく、「司法に対する国民の参加」と言われてきた経緯もある。
 しかし、刑事裁判が、危うい刑事被告人の人権が念頭に置かれねばならないのは、疑うことができないことである。どうして、「権利」と「義務」が逆立ちするのだろうか。
 佐藤とか三谷といった大御所が、そのような大間違いをしているのであれば、「憲法を専攻」するようなものであれば、あるいは法学部のスタッフとして、生活と身分を保証されているのであれば、「先生、それはおかしいのではないのですか」が言えないと、明らかに職務怠慢である。アンリーガル・プロフェッションの介入どころではない、リーガル・プロフェッションが自己崩壊しているのである。
 佐藤幸治氏が元会長であった司法制度改革審議会の提起によった法科大学院の創設に伴う日本の法学教育は、現在まぎれもなく危機的状況にあると言われている。当初七割を合格させるつもり多額の投資で創設した法科大学院修了者が受ける新司法試験の合格者は三割である。一方で本来の法学研究者の養成もストップしている。日本近代法学教育史上、かつてない危機とはそういう意味である。司法制度改革審議会がもたらしたものであることは議論の余地はない。
 しかし、その審議会の粗末な議論に検討を仕入れなかった日本の法学部、法曹団体も危ういものである。
 とにかく、「権利」と「義務」も弁えない法学部など、何の期待もされないし、又、必要ともされないであろう。

【附記】最初に述べているように、『ノモス』23号が読めるような状態になってから、書き始めた。6月に大阪大学で開かれた近代法制史研究会で、報告したものである。本稿についての知人の読後感は、筆者を鼓舞してくれた。だが、公表する「場」について、正直、懸念があると言った。(実際、その通りであった。)その知人も、昨今の大学とか研究機関を標榜するところの、惨めな危機的状況を懸念しているからである。大学スタッフの、惨めな危機的状況は、その周辺に及んでいくのも辛いところである。
 殿谷の「tono-taniの日記」とは、趣旨が全く異なるが、いささか、1960年代最後のころの関大法学部によせる共通の思いから、掲載を依存することになった。なお、シンポジウムの記録を直接読んでいただければ、本稿が、いかに、シンポジウム参加者の非常識な発言を非難することを避けて議論にしようとしたかも理解されると思う。 (蘆田)