四 司法と規制緩和 ―「司法権の独立」は、専門法曹のためのイデオロギーか

 三谷氏は、市場経済論者であるミルトン・フリードマンが「市場経済論者としての立場から、司法改革に対する非情に大きな関心を持ったということが言えるんだろうと思います。」とし、「日本の経済界のリーダーの人たちもある程度やっぱり司法改革というのは市場経済を確立する上に重要な認識はどうももってきたんじゃないかという、そんな感じがしますので、これは佐藤先生の認識をぜひ伺いたいというふうに思っています。」と発言している(一一二頁)。
 佐藤氏は、この話をうけて、橋本内閣時代に行政改革会議のヒヤリングで田中直樹氏が「行政改革、規制改革などをやろうにも日本の司法が小さすぎる、司法改革が不可欠だと仰ったことを鮮明の思い出す。」という種々の規制緩和の一環という話である。これは規制緩和すると、種々の社会的安全装置が、欲望を規制する装置が壊れる。すると多くの被害者が出現することになるが、それぞれの被害者が自分で防衛しろということらしい*1。
 私たちは、司法というのは、正義の実現や救済の場であると考えてきた。しかし、三谷氏にとっては、「生産力」を生み出す装置として考えているようである。二〇〇一年の五月から七月にかけて『UP』誌に掲載された「政治制度としての陪審制*2」には、「三 経済制度としての陪審制」という節がある。三谷氏は「このようなアメリカにおける民主的諸制度と経済発展との関連についてのトクヴィルの洞察に先行して、一八世紀のイギリスにおける陪審制と経済自由化との関連を指摘し陪審制を一個の経済制度として意味づけたのがアダム・スミス(Adam Smith)である。」と述べる。一八世紀という産業革命期の産業資本家勃興期の自由観を現代に説くことの意味は理解しかねる。
 三谷氏が力説する箇所の一つは次のようなものである。「さらに注目すべきことは、スミスが陪審制によってイギリスの市場の自由化が促進されていると見ていたことである。スミスは陪審制が彼の『道徳感情論』の基本的前提となっている人間共通の本性としての『共感』(sympathy)に基づく裁判制度であり、これがもう一つの人間共通の本性である『交易(あるいは交換)性向』(disposition to barter)およびそれを支える『説得本能』(principle to persuade)に基づく経済制度としての市場を発展させる必然性を認めたのである。スミスは具体的な貿易問題と陪審制との関係を取り上げ、次のように述べている。『侵害は当然に目撃者の憤りをかきたてる。加害者の処罰は公平な目撃者がそれに同調することができる限りにおいて、妥当である。これが処罰の自然な尺度である。我々が刑罰を是認する第一の根拠は通常考えられているような公益の尊重(regard to public utility)ではない。真の原理は、被害者の憤りに対する我々の共感(sympathy)である。…………』」と述べるのが、なぜ今は妥当しないのか。
 抽象的一般的人間を主体として考察することが、スミスの時代には、妥当していた。抽象的一般的に「人間」であったとしても、現実的具体的には、それは「虚偽」であるから、虚偽としての「共感」を見い出さざるを得なくなるのである*3。
 三谷氏は、国家の軍事力を管理するミリタリー・プロフェッションに対して、シヴィリアンのコントロールがなければ、ミリタリー・プロフェッションの健全さは保てないという思想がある、と述べ、国家の司法権を管理するリーガル・プロフェッションに対してもシヴィリアン・コントロールに相当する制度が必要で、それに最も近い制度が陪審制であろうと述べる。
 戦前日本の軍部の台頭は、プロフェッショナルとしてのミリタリーの崩壊であり、崩壊せしめた第一の理由は、政治指導部の自壊である。政治指導部と財界の腐敗が、捜査部が伸長しなくさせたように、政治指導部の衰退は、森恪のような民間国家主義者の活動と前線軍将兵の軍中央無視の近代国家軍ではあり得ない行動を起こし、しかも、近代国家ではあり得ない処分として結果するのである。
 陪審制など、判事の訴訟指揮があって初めて成り立つのである。陪審制は、むしろ、司法権の独立を前提とするものである。陪審は判事の厳格な訴訟指揮の下で初めてありうるものである。それが、シヴィリアン・コントロールとなれば、それは、ちょうど、戦前の日本軍中央が、現場や、下級将校の動きに規制される、解体状況になった姿を想起しそうである。
 三谷氏は、旧憲法および現行憲法を通して不変の重要な部分を成している「司法権の独立」もまた、「統帥権の独立」と同じような意味でリーガル・プロフェッションのためのイデオロギーであり、両者が特定のプロフェッションのためのイデオロギーであるという面で共通性をもっていることに注目する必要がある*4、と述べる。三谷氏は「司法権の独立」はリーガル・プロフェッションのためのイデオロギーだと述べているのである。だから、ノンプロフェッショナルによる介入が必要であると説くのである。しかし、本当にイデオロギーであるなら、そんなものは無くせばよいのである。
 三谷氏が、そして佐藤氏が拠り所とするトクヴィルは『アメリカのデモクラシー』で「合衆国における法曹精神について、また、それが民主政治に対する均衡の重しとしてどのように役立つか」という項目を挙げ、「だから私は、君主が民主主義の侵入を前にして、国家の司法権を破壊し、法律家の政治的影響力を減じようと試みるならば、大きな誤りを犯すことになるであろうと考える。彼は権威の影を残すためにその実質を手放すことになろう。」*5と述べる。
 さらにトクヴィルは「司法権の縮小に人民を駆り立てるある密かな傾向が、合衆国に存在することを知らぬわけではない。個々の州憲法の多くにおいて、州政府は両院の要請に基づいて裁判官の職を解くことができる。いくつかの憲法は裁判所の構成員を選挙させ、しかも頻繁にこれを繰り返させている。あえて予言するが、こうした改革は早晩忌まわしい結果を招き、司法官の独立をこのように損なうことによって、司法権のみならず、民主的共和政そのものを攻撃してしまったことに、人はいつか気づくであろう。」*6と述べるのである。


1 そのために法曹人口を増やそうとしたということのようである。多額の費用と宣伝ではじめた法科大学院であったが、日本の法学教育の歴史においてかってない危機的状況を招いている。尤も、かかる杜撰な論理で陪審を語り、裁判員制度を成立させてしまう状況では、いままでも大した法学教育はなされていなかったのかも知れない。
2 三谷前掲『政治制度としての陪審制』(二〇〇一・九)の序論である。
3 三谷氏は、刑事陪審で法や制度を作り出すかのような表現がなされるが、それは現代ありようがない。評決は、証明されたら有罪、疑いがあれば無罪で、理由は云わないからである。理由なしであるから、証明されていても無罪もあり得るわけである。
4 三谷前掲『政治制度としての陪審制』二三頁。
5 前掲岩波文庫版第一巻上一七三頁。
6 同じく前掲岩波文庫版第一巻上一八〇頁。