(2)明治憲法下の「統帥権の独立」と「司法権の独立」

 三谷氏は、「司法権の独立」という言葉がもつ理念イメージを払拭するために、「統帥権の独立」という軍部の専横を象徴する言葉で類推させる。
 確かに、双方とも簡単に踏み込めない、逆の意味ではあるが聖域かの印象を持つ言葉である。そして、双方ともに、もとは、政治的介入を拒否する表現として形成されていたものである。
 その共通する「政治的介入の拒否」からみれば、三谷氏のアイデアにも一理あるとは言える。しかし、三谷氏のアイデアは、まず、司法の「政治的台頭」ということを言わなければ成り立たないところで、暗礁に乗りあげる。要点が政治的ニュートラルである筈のものを、政治的に意味付けしないと話が進まないからである。つまり、それは、検察勢力の動きということなのである。検察勢力が、「司法権の独立」を旗印で伸長するのを迎え撃つ必要があり、それが「陪審制」といういわば「多数の暴虐」ということになってしまう。
 しかし、「検事は行政官」とは、尾佐竹猛の言葉である。三谷氏は、自分が問題にするのは、検察中心の司法権の独立、あるいは、検察を含む司法部のこと、だということであろう。そうであるなら、そもそも三谷氏は用語を間違えていることになる。そして、平沼自身も「司法部」というように、そこに混濁があるなら、それを明確にすることが、本来の解決の方向であると言える。
 二重の不可解な論理操作は、如何なる「政治意図」から出たものであろうか。
 類比される「統帥権の独立」についても注意が必要である。明治憲法第一一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」は当然ながら、現実に天皇が指揮することを規定したわけではない。政治的な対立に軍が組み込まれないための規定である。皮肉なことに、「統帥権の独立」が叫ばれるようになったのは、軍をなんらかの政治的に使おうという目論みが発生するからである。
 さらには、昭和の初めから、軍自体の統率はどうなのあろうか、統帥権があるとするならそれ自体もはや危機的状況であったのではないか。周知のように、総理大臣陸軍大将田中義一は、無謀に、張作霖を爆殺し、日本を国際政治上困難な立場に追い込んだ事件の中心人物河本大佐を処分しえず、辞職せざるを得なくなった。軍中央を全く無視し、違法・違令の反国益の軍人あるまじき行動を行った河本を、軍中央(陸軍参謀本部など)もまた適切なる処分を何等行い得なかったのである。
 統帥権干犯事件として知られるのは、その後の一九三〇年、ロンドン海軍軍縮条約をめぐるときのことである。田中義一内閣の下で、中国侵略のために実質上東方会議をとりしきっていたのは、中国の利権をもつ事業家で、当時外務政務次官であった森恪である。
 そのような「統帥権の独立」論の皮肉な現れも、政治史の三谷氏なら、怜悧に分析されることを期待していたのである。ところが、統帥権の独立と軍部の活動は、俗説をそのままに擱き、司法権を検察権に読み替え、「政治」の停滞あるいは後退が、検察の摘発を招いたこと、そして、それは、日本の政治の飛躍のチャンスにもなり得るのではあるが、しかし、摘発を招くことそのものが、政治発展の力を喪失していたことの現れであることの認識が必要なのである。
 大正の陪審制が、三谷氏が主張するように、司法権の独立を籠絡するようなものではなく、司法権の確立を目指すものであったことは、三谷氏が、打倒すべき「司法部」の代表と見なす平沼騏一郎の見解からも窺える。つまり平沼は「たゞ証拠があるからと云つて裁判しても往々間違がある。陪審制度と云ふのは一つはその意味がある。犯人の白状の代りに素人の陪審人が事実、行為の判断をするのであって、陪審制度が目的通り行はれるといゝ。」*1と述べるのである。


1 前掲平沼『回顧録』五一頁。これは口供完結の制度と列べて述べているところではある。そして、「裁判官の責任遁れである。」という言い方をしている。