(1)「司法権の政治的台頭」とは何か

 「日糖事件といわれるのは」三谷氏の叙述によると「当時の大日本製糖株式会社が台湾製糖業に対抗して、内地製糖業に対する保護政策的意味をもつ輸入砂糖戻税法(原料砂糖輸入関税の一部を製糖業者に変換する趣旨で明治三五年法律第三三号として成立し、明治四〇年三月末日まで効力を有する時限立法として実施された法律)の改正案(法律の有効期限をされに明治四四年七月十六日まで延長することを目的としたもの)の成立を計り、さらに砂糖消費税増税に対応して砂糖官営を実現するために、明治四〇年から四二年(第二三議会から第二五議会)にかけて、政友会はじめ衆院各党の議員を対象とする贈賄を行った事件である。起訴された議員は、明治四一年五月の総選挙に大日本製糖から運動費の援助を受け当選した者を含めて、政友会十三、憲政本党六、大同倶楽部二の合計二一名に上り、第一審では一名を除いて全員有罪、控訴審でも新たに無罪となった二名を除いて、全員有罪となった。そして上告は棄却され、議員十八名の有罪が確定したのである。これは政治的疑獄としては空前のものであった*2。」 そして「当時東京控訴院検事長代理として検察の総指揮をとったのが、司法省民刑局長平沼騏一郎である。」平沼は、当時の心境について、「自分が考へたことを率直に述べやう。……世間は段々腐って来た。勝手なことをやり出した。そこで司法部に奉職する以上は放っておけない。……そして小泥棒、詐欺、博打の如きを罪しても仕方がない。実業家、官吏など威張ってゐる悪い者をどうかせねばならぬと考へた*3。」
 三谷氏は、平沼のこの回顧を「司法部の無力感と鬱屈感とが平沼の中に凝集し、それが日糖事件に向けて一気に吹き出たということができよう。」と受け取っている。三谷氏が平沼の中に凝集しているという無力感・鬱屈感というのは、平沼の「私は若い時から感じてゐたことがある。それは司法部があっても一向役に立たぬではないか。役に立つ者は行政庁にゆき、役に立たぬ者が判事、検事となっている。私など司法省の給費を貰ってゐたからこゝに入ったので、自分では内務省に入った方がよいと思っていた。」ことを言っているのであろうか。しかし、そのような心理的屈折からの摘発と考えるのは問題である。結果として、平沼は当時の政界・財界と摩擦を生じたが、平沼の処世上の信念は、その回顧の直後にある。「それは、名利の為に奔走する勿れ、自分の正しいと思ったところを進んで行け、それで栄達することもあるし、さうでないこともある。然しそれは眼中におくなと云ふことである。私は司法部へ入ってから今日に至るまで之を守って、名利の為に奔走したことはない。進退に就いてたゞ一度自分で運動したことがある。それは第三次桂内閣が倒れ、司法次官を辞めた時検事総長をやりたいと希望を述べたことがある。本当に司法権を活用するには、自分がやった方が一番よいと思ったからである。」*4というものである。
 そもそも、三谷氏が「司法部の政治的台頭」とする語義が明解ではない。「司法部」官僚の存在感がでてくるという情緒的表現としてはあっても、「司法」部が「政治」的台頭とは意味をなさない。
 三谷氏は「従来消極的で非政治的であった『司法権の独立』は、およそ明治四十年代以降において積極的な政治的意味をもってくる。それは明治四〇年代以降における司法部内の検察権力の台頭とその政治的影響力の増大によるものといってよい。すなわち、検察権力は明治四十年代から積極的に政治的疑獄に介入し、藩閥、政党、さらに軍部に対しても政治的脅威としてうけとられるようになる。そしてそれを通して司法部の政治的威信が増大し、『司法権の独立』は防衛的守勢的なものから攻撃的攻勢的なものに変わってくるのである。」と述べる。
 平沼自身が、「司法部」といった言い方をしているのであるが、「司法」といえば、普通は、裁判所のことを云う。平沼自身、司法省から判事としての勤務もあったので、「司法部」とぼかした言い方をしているが、概念としては分けなければならないであろう。平沼も、司法省に勤務したことを、行政官庁に勤めたこととは別のように言っている。しかし、内務省へ勤務を変える話もあったくらいで、基本的には、行政官僚である。
 三谷氏は、尾佐竹猛『判事と検事と警察』(大正十五年)が「司法権独立が高唱されるときは常に検事の独立の意味である。」「世人の大多数に向つて検事は行政官で、上官の命に従ふものだ、独立でないと説明すると怪訝の眼を以て、此説明を詭弁の如く憤慨するものさへある」とし、また、「問題が起ると新聞紙上堂々と司法権独立を高唱し、其神聖を絶叫して居るのは司法次官または局長で、時に依ると検事正が此事を述べて居る。そして当の独立の本人たる判事はウンだとも潰れたともいはない」と書いているのを紹介している*5。ただ、尾佐竹は、司法権とは、裁判のことである、決して検察のことではない、と言っているのである。検察を司法の中心と考えることが異常だと言っているのである。たとえ、検察の存在感が増したとしても、「検事は行政官」と唱えているのであって、三谷氏の如く、「司法権」の政治的台頭とか、「司法権」が攻撃的攻勢的になったとは言ってはいないのである。三谷氏の「司法権の政治的台頭」という考えは、検察と裁判すなわち司法を混同することによって始めて成り立つものである。司法権の独立を検察の独立と間違うことがあったとしても、それは間違いなのである。間違いを前提として理論構築をしてはならないのである。このような混同は、司法省の成立を司法権の確立とするような間違いとして、近時もまたみられる*6ことである。しかし、同時代人である牧野菊之助は、そのような混同は、法律知識に欠けたる者のすることとして嘆いているのである。

  ……一般民衆が法律智識に欠くる所あり、裁判所と検事局との区別を知らず、司法処分の何たるかを解せず、証人たるの義務を弁へずして裁判所に出でて嘘八百を平気で並べ立て……*7

 尾佐竹は、むしろ、司法権の当の本人のあり方を案じているのである。まして、「司法権の独立」を「統帥権の独立」と並ぶイデオロギーと考え、懐柔あるいは壊滅を図るなど到底思いもしないことであった。
 三谷氏の叙述で不可解なのは、検察権力は、明治四十年代から積極的に政治的疑獄に「介入」と述べていることである。政治的疑獄に介入、などと言えば、捜査を停止するなどの妨害行為を想起する。確かに、それまで、捜査しなかった検事が捜査するようになったのであるから、それを「介入」と表現されたのかも知れないが、政界と財界の不正な癒着、しかも、賄賂を帳簿に記載しておくなどという状態を、見過ごすということが行われている状態を、当局としては何らかの手をうつべきで、それを「介入」というべきであろうか。 続いて、大逆事件シーメンス事件、大浦事件と、平沼が活躍した事件があげられている。
 平沼は、日糖事件に関連して、「これ迄検事局が捜査などやりはすまいと大手を振ってゐた。之をズンズン調べ立派な証拠が挙つた。又その波及する所が大きく新潟の油会社まで及んだ。当時桂が総理大臣であった。あれでも総理が司法の力を圧迫すれば圧迫できたが桂は之をしなかった。」と回顧している。また、平沼が面会した桂は「君は何だナ、角を矯めて牛を殺すやうな事をするナ、あの事件を広げるやうだナ、今やつた丈の事は丁度世の中を矯めるにいゝ。君等の努力には感謝するが、これ以上は角を矯めて牛を殺すやうなものだからやらぬがいゝと言った。私は答へて、角を矯めて牛を殺すやうだと仰しやつたが、実はその牛を殺してやろうと思ってゐる。その牛が悪いからと言ってやった。すると、それは君の言ふとおりだが、段々にやるといゝ。今急にやるのは宜しくない。」*8と言われたと述べる。
 また、平沼は、シーメンス事件に関連して、山本権兵衛に会ったことを回述する。「私はかう云ふ事件は正々堂々とやつて、人をペテンにかけたりしては後に害を残してはいかぬと思つた。捜査を始めたので、山本が総理であるから山本に話した。私は山本を知らなかったがその時会って、実はかう事件であると言ふと、わしも聞いてゐると答へられた。そこで、議会で弾劾した事であるから職掌柄捜査せねばならぬ。然しさうすると内閣に関係があり、殊に海軍と云ふ雄大な機関に傷がつくことであるから御承知下さいと言ふと、その通り、確りやって呉れ、徹底的にやつて呉れと言はれた。」*9とあるように、議会で問題になった涜職を、捜査機関が無視する方が問題なのではある。
 尤も、平沼は「検事総長時代、大事件の際心配したことは、党派の争いが介在してゐないかと云ふことであった。」*10と述べている。つまり、捜査が、党派の争いに利用されがちなのを極力避けようとする姿勢を述べたものである。これは、海軍事件、いわゆるシーメンス事件が、山本権兵衛の失脚狙いの陰謀だったということを、あとになって聞いたというのである。しかし、海軍事件にしても、大浦事件にしても、議会で追及された事件を、捜査当局が何もしないということは、できなかった、むしろ、海軍に関係することであるから手をこまねくことはできなかったとする。
 大浦事件についても、平沼の回想がある。「大隈内閣には山縣さんの勢力範囲の人が大分入り込んでおった。ところで、この大隈内閣に対し、えらい打撃の起こったのは所謂大浦事件です。これは大浦兼武が議員に金をやって、軍備の拡張、即ち師団の増設に賛成をさせたことがあるのです。これは矢張り賄賂で、議員涜職です。それを矢張り反対派が曝いたんです。こう曝かれてみれば私も職務上黙っておれないんです。」*11と述べる。
 日糖事件は、事件の発覚が告発*12だっということである。シーメンス事件は野党に追及され、大浦事件は反対派によって曝されたものを、検事が捜査したものである。確かに、以前のように、一切の捜査を警察に任せていたのとは異なる。しかし、ほとんど捜査などやらなかった涜職事件をするようになるのが、「介入」「攻撃的」「攻勢的」と形容しうるものであろうか。
 問題は、政界財界の犯罪の質量の変化であったのである。政界財界の活動の伸長と伴に劣化ともとれる道徳規範、賄賂・涜職、そのような状況での検察の活動であったのである。もし、その検察の活動は突出して見えたとしたら、それは、日本の政党政治の組織、活動から政治倫理規範の全ての面における未熟さの反映としてあったのかもしれない。
 「司法」手続についての、実際の議論の土台ができたときかもしれない。例えば、平沼が、陪審を証拠方法として合理的なものであると認識していることである。
 「司法権の独立」に対抗するために政党政治が放った手段としての陪審制の制定などとは、陪審制を貶めるものでしかない。もし戦前に制定施行された陪審制が、かかる政治的意図のものであったのなら、戦前の陪審制が、その有効性に疑問をもたれたり、また存在感自体が希薄であったことの大きな理由であるのかも知れない。
 三谷氏は佐藤幸治氏主宰による政府の司法制度改革審議会で坪内逍遙小説神髄』に陪審裁判についての英文論文の翻訳アルバイトの話が出てきたというエピソードを話し、明治一五年頃に陪審制の論議が盛んであったことの反映ではないかと思うと言った、とシンポジウムでも述べている(九八‐九頁)。
 このようなエピソードを紹介し、感想を述べる三谷氏には陪審制について、一つの知識が欠落しているのを指摘しなければならない。
 それは、一八六五年、イギリスの枢密院令で日本における領事裁判と中国における領事裁判が統一的に規定され、上海高等法院の設置が定められ、一八七二年から高等法院から派遣された形で横浜に専門法曹が常駐するようになり、一八七六年の枢密院令で神奈川日本法院が設置されている。この法廷は、領事などによる素人裁判lay justiceではなく、七年以上のイングランドスコットランドあるいはアイルランドのbarのメンバーであったイギリス人判事のもとに行われるものであった。そこでは陪審裁判が行われ、帝国大学英法科では、この「英国裁判所」を学生に見学させる例になっていたことを、三谷氏が、裁判所と検事局を分離することに尽力した人物としても挙げている原嘉道が回想で述べている。平沢の証拠方法としての陪審についての理解もまた、学生時代からのかかる学習が基礎にあると思われ、さらに実務で、その証拠法上での合理性への認識を深めたと思われるのである。


1 『法曹会雑誌』第一七巻第一一号、七八頁。
2 三谷前掲六二‐三頁。雨宮昭一「日糖事件―汚職事件と検察権の拡大―」(我妻榮・林茂・辻清明・団藤重光編『日本政治裁判史録』明治・後、第一法規出版、昭和四四年)
3 三谷前掲六三頁。『平沼騏一郎回顧録』(平沼騏一郎回顧録編纂委員会、昭和三八年。『歴代総理大臣伝記叢書 第26巻 平沼騏一郎ゆまに書房 二〇〇六)三九頁。
4 前掲『平沼騏一郎回顧録』四〇‐一頁。
5 三谷前掲書七一頁。
6 染野義信「司法制度」(『講座日本近代法発達史二』勁草書房、一九五八、のち同氏著『近代的転換における裁判制度』勁草書房、一九八八に所収)の「『欧州各国ノ政体』に倣うことを目的として着手された裁判制度の整備は、五年四月二七日江藤新平が司法卿に就任して以来本格的に実現されることになったのである。」(同書六〇頁)に、その無自覚が見られる。さらに福島正夫「司法職務定制の成立とその意義 ー江藤新平とブスケの功業ー」(『法学新法』八三ー七・八・九号、一九七七)「かくて、江藤は悲惨にも刑死し、ブスケは怏怏として日本を去る。しかし、この二人が日本司法制度建設に寄与した功績は不朽である。その残した成果はすなわち『司法職務定制』であった。」(五二頁)としているのは、司法職務定制は日本近世にあった取り調べ手続の伝統にあることの認識欠如である。
7 牧野菊之助「裁判教育と陪審制」(『回顧録』厳松堂 一九三二年)九九頁。昭和二年に大審院長に就任した牧野が大正一五年の大審院部長時代に述べたこと。
利谷信義氏が『岩波現代法講座6』三八八頁で引用。しかし、利谷氏自身、「検察審査会と国民の法意識」(戒能通孝還暦記念『日本の裁判』日本評論社、一九六八)で、しばしば裁判と検察の混同をされている。
8 『平沼騏一郎回顧録』五二頁。
9 『平沼騏一郎回顧録』八三頁。
10 『平沼騏一郎回顧録』八〇頁。
11 『平沼騏一郎回顧録』「巣鴨獄中談話録」第十七回(『歴代総理大臣伝記叢書二六』二三〇頁。)
12 雨宮昭一「日糖事件」(『日本政治裁判史録 明治・後』昭和四四年)四九六頁。