三 大正期成立陪審制は、「司法権の独立」というイデオロギーを廃するためのものであったという三谷氏の主張

 明治憲法下の大正一二(一九二三)年に陪審法が公布され、昭和三(一九二八)年一〇月から施行された。
 三谷氏は「彼(原敬)はそのための(検察主導の司法部を包摂するための)政治的手段として、陪審制を導入して行く、それを政党政治のサブシステムにすることが必要だということを考えるようになった思います。」(『ノモス』二三、一〇四頁。)と述べる。
 三谷『政治制度としての陪審制』には、一九八〇年に出版された『日本近代の司法権と政党―陪審制の成立の政治史―』の「あとがき」も付されている。そこに、

  いいかえれば司法部を明治憲法体制を支える一個の政治勢力としてとらえ、「司法権の独立」の政治的イデオロギーとしての役割に光をあてることの重要性を認識したのである。「司法権の独立」と「統帥権の独立」とのイデオロギー的親近性に着目したのも、そのような視角からであった。(新版二五五頁)
(略)
  したがって著者(三谷氏)にとっては、「司法権の独立」の象徴は神話化された児島惟謙ではなくて政治的人間としての平沼騏一郎や鈴木喜三郎であり、原敬と平沼および鈴木との関係は、原と陸軍における田中義一との関係に等しいものと考えられたのである。   (同頁)

と、三谷氏の陪審制研究の視角が明示されている。「統帥権の独立」というイデオロギーが、軍部の横暴を許し、日本を破局に導いたのと同様に、「司法権の独立」というイデオロギー原敬を代表とする政党政治家たちが打ち破らなければならないイデオロギーであったというのである。
 「しかるに司法部内および部外に対する検察権の威信を高めたのが、明治四二年の日糖事件といわれる政治的疑獄への介入」であると三谷氏は述べる。「しかるに」とあるのは、前検事総長光行治郎が、明治中期の検事の活動について、「検事は司法警察官と裁判官との間に立ち、刑事事件の取次を為すに過ぎず」と、昭和一四年の「検察権運用の推移」*1で回顧しているからである。