暴走日本…… 2011年の憲法記念日で思ったこと

 昨日は、5月3日、つまり憲法記念日である。東日本大震災の復興どころか、原発事故はまだ大変な状態が続いている状況下である。
 ただでさえ、戦後憲法の意義への問いかけが低調になっているとき、わけのわからない祝日濫造で、憲法記念日も大型連休に飲み込まれていた。その上での大震災である。
 あげく、夕方のニュースによると、今回のような緊急時のために、政府が強力な指導力をもてるような憲法に変えようと、気勢をあげた集会があったらしい。
 指導する気があれば、今の憲法でも十分対応できる。言い方を変えれば、十分暴走できる。というより、既に暴走状態になっている。
 ロボット先進国である筈の日本が、どうして、アメリカのロボットを借りているのか、は、兎も角も、福島の原発事故に関して、関西テレビの番組で、青山繁晴という男が迫真レポートをしたことをアピールしている。
 青山は、経済産業省総合資源エネルギー調査会専門委員、内閣府原子力委員会原子力防護専門部会専門委員、海上保安庁政策アドバイザーを担当しているそうである。どんな専門家かと思えば、かつて共同通信の記者として、政治家、とくに安倍晋三などにコネクションをつけていただけらしい。原発に関して、素人の域を超えない。こういうのが、福島原発事故最前線レポートして騒いでいるのである。これも、いわば日本の「危ない」兆候の一つである。先に触れたが、2008年度のノーベル物理学賞を受賞された小林誠益川敏英の両先生が、異口同音に日本の自然科学の基礎研究の危機的状況を語ったおられた。5月1日のサンデー・モーニング出演の金子勝氏が、構造改革いう名の規制緩和以降の一つの問題として、収束困難な原発事故を問題にしていたようだ。
 本当に切実に、事故は、間違ってもいいから、一瞬でも早く、収束して欲しい。しかし、現実には、困難な情況が続いている。中学地理の教科書に、原子力発電所は、トイレの無いマンションみたいなものだという叙述があったが、今、ブレーキが無い自動車だったかも知れないような状態である。つまり、暴走、コントロールできないのだから、暴走である。
 憲法記念日に、何の話題かと思うが、今、裁判員裁判というのが、日本では行われている。裁判員裁判の趣旨は、「素人に裁判をさせる」ということである。強制的に「させる」のである。ことばは悪いが、第二次大戦中(あるいは、すでに日中戦争時)、徴兵されてきた兵士に、捕虜を殺させ、「教育」した例と同じである。この無残な「強制」が、日本の法学者などによって「市民の司法への参加」などという美辞で語られる。
 新約聖書の「ヨハネによる福音書」では、人に人を裁く根拠などないことを述べている。だから、日本国憲法では、刑事被告人の権利に関する規定が、10箇条にもおよび、裁判官の独立の規定まであるのである。
 裁判員裁判が、憲法違反であることは、論を待たない。陪審制であるなら、有罪を認めている被告に陪審が開かれる筈がない。
 裁判員裁判の多くが、罪を認めている被告に対してなされている。消え入りそうな人権状態の被告人を、なめ回す裁判員の有様を、「いじめ」を連想する人は少なくないだろう。 検察審査会の改訂も、恐ろしい。検察庁が、公判を維持しうるだけの証拠がないとして、起訴しなかった事件を、「疑わしい」として起訴するなど、法治国家のすることではない。 さらには、この憲法違反の裁判員裁判や、証拠が無くても胡散くさい者なら起訴する制度を、小・中・高校生に教え込もうという「法教育」を法務省が、文科省を巻き込んで推進していることがある。
 これは、とんでもない,暴走じゃないですか。
 経済は、しばしば,暴走しがちのものです。しかし、法や裁判が暴走するようでは、もう、日本は、終わりではないですか。(2011/5/4)