産官学協同路線

 産学協同路線「批判」が、議論の表から消えたのはいつごろからなのか。
 今から、40年ほど前は、「産学協同」というのは、確かに、攻撃対象に付けたお札のようなものだった。いつ頃からだろうか、各大学が、争って、「産学協同」を自分の学校の宣伝文句として使い始めた。一例として具体的に名前を挙げると、関西学院大学の広報誌『関学ジャーナル』のバックナンバーのいくつかを繰ってみれば、すぐに「産学協同」を掲げているのにお目にかかることが出来る。
 先日、京都大学文学部東館をとおりかかったら、「産官学協同推進本部」という看板があった。落ち目の京都大学、しかも存在の危機をも感じているはずの文学部で、世間に、めいっぱい媚びたような看板である。
 いよいよ駄目なんだな、京都大学も文学部も、と寂しい思いがした。
 5月9日の毎日新聞が、「日本と米国がモンゴルに国際的な核廃棄物の貯蔵・処分場を初めて建設する極秘計画が明らかになった」と報じていた。ところが福島第一原子力発電所の事故である。原発は、産学協同、あるいは産官学協同の最たるものだろう。つまり、原発は政府が主導するビッグ・ビジネスだったようである。福島第一原子力発電所2号機の取水口付近で、立て坑(ピット)の亀裂から放射線量の強い汚染水が海に漏れていたとき、新聞紙やおがくずなどで、止めることを試みていたのには驚いた人も多いだろう。
 産官学協同の日本の技術はこの程度かと思ってしまう。否、産官学協同だから、このような悲惨なことになったのだ。批判もコントロールも効かない、というのは、拙劣なことでも、無批判にまかりとおる、ということである。拙劣がまかりとおる、拙劣の既成事実が積み重なると、それを前提とした愚劣が重なる。国土が荒廃する。社会が、国が危ない。
 週刊誌や新聞など、危機管理がどうのこうの言っている。今の雑誌やテレビ、新聞そのものが、危機の表れだという自覚はあるのだろうか。雑誌や新聞、テレビは、やはり社会の鏡だ。つまり、拙劣な社会を最も映し出している。その自分たちの存在自体を「危機」だと認識することができること、そんな能力はもう無いか。
 先に触れた「大学」の広報誌が「産学協同」と言っているのというのは、そのコンパクトな例である。大学の広報誌は、自らの大学が危機的だということを、「広報」しているのである。