小沢一郎の政治的力量

 辺見庸言うところの糞蠅どもの話では、つまり、新聞などの見出しでは、小沢一郎の存在感が日増しに強くなっているようで、旧与党の自民党の首相経験者たちにとっては、それが鬱陶しいらしいようである。そういえば、小沢に対抗するように管や鳩山を焚きつけたいと、中曽根などの名前入りの記事があるという雑誌の広告なども見るからである。
 それにしても、小沢は出すぎの感はする。自分の人生の正念場と思っているのかどうか。よく判らない世界のことだが、国賊小泉で崩れまくった日本の政治が小沢の力量で治まったかの印象もうけた。
 鳩山内閣の閣僚は、それなりの見識ある人が就任している印象もうける。自民党が、選挙でも、辛うじて、公明党員の肩代わり活動で維持されたきた実態が露わになって、貧相の限りである。野党自民党の最大の追求ネタは、鳩山の政治資金だった。いわば鳩山家の金なのだが、鳩山家の金の手続をとやかくいうのは、如何にも賤しい。見返りを期待した献金とは、事情が明らかに異なる。
 河野洋平の息子、河野太郎にも失望させられる。あれほど、国民が痛んでいるのに、まだ、「小泉改革」が不徹底と言っている。池田香代子とかいう翻訳家が、これまた、河野太郎の話に乗って、「規制緩和推進」などと言っている。何を言っているのかと思えば、各自ソーラーパネルなどを設置して、電力会社に頼らないことだという。各国民が、発電装置を設置するのに、どれほど金がかかると思うのか、すぐに分かることだろう。設置するだけの家を持てる人がどれほどいるのか。生活費もままならぬ家庭がどれほどあるのか。老後の保障のない夫婦がどれほどいるのか。そんなアホが、国会議員だとか、あるいは、他人様に読ませる文章を書きまくっているという。
 それは、さておき、小沢一郎だが、中国との交流に天皇を担ぎ出した。日本がアジア世界の一員であることを、とくに印象づける演出であることは明かである。つまり、天皇の政治利用は明らかである。それに宮内庁のトップが懸念を表明した。小沢が怒った。その懸念は真っ当だからである。その怒りが、またみっともない。「辞表を出してから言え」とか「憲法を読んだことがあるのか」みたいな言い方だったという。小沢は一政党の人間だろう。憲法は、天皇の政治的利用を極力避ける規定である。もっとも、当然のことであるが、国事行為といっても、全くそれが、政治的意味をもたせられない、ということはない。しかし、憲法の趣旨はあくまで、政治的利用を排除しようとするものである。当然のことながら、小沢は、政治的な意味がなければ、天皇を中国首相と面談させるようなことはしないだろう。
 問題は、このような、小沢のごりおしではない。天皇も利用する辣腕かのようみみえるが、天皇を担ぎださないと、アジアへシフトしたぞ、と自分たちの政治主張と政策でアピールできない、政治力量の無さが一番の問題である。
 官僚からの脱却とかなんとか言わないといけないのは、それだけ、政治家の力がないからである。官僚は官僚である。実は、随分と前から、官僚の仕事をずたずたにしてきたのは、「政治家」だと言われてきた。政治家が本来の仕事をすれば、全ては済むことなのである。戦後の荒廃した大蔵省や国税関係の組織全体を再構築するのには、官僚自体による猛烈な清浄化の努力がなされたことを、ジャーナリストも調査・報告しなければいけない。テレビでも目立つのは、糞バエ、政治レポーターでしかない。
 もとは厚生省官僚として仕事をしていた『常識のうそ』で名高い石垣純二が、参議院議員に立候補したのも、官僚としての仕事の限界と、政治家の立場からくる力をまざまざとみせられたからだと書いていた。
 日本を駄目にしたのは、官僚ではなく、「政治家」、それに、その糞バエか。