傑作 四方田犬彦『先生とわたし』の「すべてデタラメ」 -ペテロでもなく、ユダでもなく-

 四方田犬彦『先生とわたし』(新潮社 2007)は、確かに傑作だと思った。由良君美という東大名誉教授である以上に希代の教養人で、例えば脱領域・脱構築という日本語をつくり具現化したように、日本の「文化」を底上げした人物を描いた評伝でもあり、しかし、四方田がいうように80年代文化状況も活写しており、四方田の自伝を巧妙に仕組くみ、師弟論で纏める。このことは、新潮社『波』2007-7の巽孝行×四方田犬彦対談では、四方田が、「いや、見事に絵解きされました。」と言っているように巽がうまく説明している。
 しかし、これはやはり、由良君美の評伝ということで読まれるのであろう。評伝というのは、評伝される人物が面白くないと、そもそも意味を持たないが、その面白い人物に迫れるだけの力量が書く方に無ければ、これまた成り立たない。その意味で、由良君美四方田犬彦は絶妙の取り合わせかと思われ、それをジョージ・スタイナーと山折哲雄の師弟論で粉飾するとは心憎いばかりである。

「和解」

 しかし、由良君美四方田犬彦という師弟間の見えない亀裂が語られ、そこに由良の四方田に対する嫉妬の推測が出てくるころから、興ざめを禁じ得なくなってくる。そして大詰めで、「ここまで来て、ようやく彼と和解できたという気持ちになった。」という文をみて、無念な気持ち、寂しい気持ちになった。由良君美にして、この弟子か。四方田にして、このざまか、と思った。
 「和解」というのは、相互の人格として了解しあえたという意味であろう。ところが、ここで、「和解できた」というのは、自分の師である由良も、自分と同じような、弟子に対する嫉妬にさいなまれた「脆い人」であったと理解したとしかとれないこになる。
 どんな嫉妬なのか。四方田の場合、かつての教え子が、見違えるほどに、欧米の事情に通じていたとか、韓国語やフランス語が、飛躍的に上達していたといったことのようである。それは、ある程度の羨望を覚えたとしても、とても嫉妬するほどのことでもない。少々欧米の事情に通じていたとしても、驚くような見解などまず聞かされることはないからである。由良が四方田に言ったように、「そんなこと、改めて聞くほどでもないよ。」ということだろう。
 逆に驚くほどの後輩の見解を聞かされれば、それは感嘆祝福するだけのことだろう。そのような気持ちがなければ、由良がサイードの『始まり』を読んだときのような感激を表すことなど出来ないだろう。すぐれたものは、無条件に、すぐれた知性を感激させるものだ。四方田の「嫉妬のようなもの」は「ただわたしはそれを、いくばくかの自尊心によって抑制してきただけなのかもしれない」程度のものである。
 これは、更におかしい、そもそも嫉妬といえるかどうか判らないほどのものである。それでも一応嫉妬としておこう、しかし、四方田でも抑制できたほどのものである。四方田は、きどって書いているが、読む者は、「自分はなんとか抑制できたけれど、由良は抑制できなかった」と受け取りかねない。実際そういう趣旨かも知れない。由良君美より四方田犬彦の方が偉くなってしまう。実際、「和解」などというのも、「先生」を自分の枠内に納めることが出来た、というだけなのである、「何の驕りか」。
 小林龍生は、四方田の雑誌掲載文を読んで「愕然とする、というか、唖然とするというか、ぼくは、アカデミズムとは縁を切って、編集者として、IT業界の製品企画者、国際標準化専門家としての道を歩んできたわけだけれど、そんな僕でさえ、由良先生の手のひらから一歩も出ていない、ということ。」(『怠惰な日々』2007/02/11)と述べる。四方田が、その稀な存在を、描き上げていく過程については、かなりの興味をそそる。ところが老いた(といっても、亡くなったときでさえ61歳なのである。)師に、嫉妬とアルコールによる自壊的愁嘆場を演じさせた。そして、その「脆い」師相手に和解して終わる、これは、とんでもない酷い作品になってしまった。

「ぜんぶデタラメ」

 1980年代の半ばに(どちらかといえば、はじめ)、韓国での教師生活終了後、ロンドン、ダブリンを経て帰国した四方田犬彦が、由良君美家を訪れ、韓国での体験などを興奮を隠しきれないずに饒舌になっていたとき、「…いったい松の実を摺ったお粥を食べたことがあるかね」と由良に問いかけられた、という。四方田が、一度くらいは……料亭で、と答えると、「そんなところで食べたところで、本当の味はわからないね。あれは朝に目が覚めたとき、そっと出されるのなければいけない」と由良は言い、四方田が戸惑っていると「あの味を知らずに朝鮮の心を語ることはできないよ、きみ。あれほど深い慈愛に満ちた、優しい食べ物が人生にあるとは、僕は思ってもみなかった」と続けたという。四方田は、由良がなぜその事を言い出したか理解できないままで終わっている。
 1984年に四方田が、『クリティック』(冬樹社)という論文集を刊行したとき、由良は、「すべてデタラメ」とだけ記した絵葉書を四方田に送りつけた。この絵葉書について、四方田は、巽との対談でも「わけのわからない絵葉書をもらったりとか…」と、不可解なものとして述懐する。四方田は「わたしの知っている由良君美は、ゼミで学生が見当違いの分析から間違った結論に到達してしまったときでも、あたかも固い結ぼれを丹念に解してゆくように、相手に話しかけ、彼を本来の道へと導いていくだけの、教育者としての忍耐を所有していた人物ではなかっただろうか。」(p.168)と書いている。論文集まで出した男が、ゼミの学生が受けるような指導を欲しがっているのだろうか。四方田は、その文の直前に「わたしは、彼から教わった神話原型論とフォルマリズムに影響されながらも批評と文化研究の基準を求めて、さらに別の道を歩もうとし始めていた。」と記している。この時の論文集は「現代社会に流通する写真、映画、漫画を記号学の立場から分析してみせた」ものだそうである。駒場での由良君美のゼミの第1回目に、由良は、「原型」とユングが呼んだものに言及し、文学研究においても、この原型という考えを適用することで、西洋東洋を問わず、古代から現代までの幅広い射程のなかで文学における普遍的なものを抽出できることができるのではないか、というようなことを話した、と四方田は述べる(p.20)。そのとき文学のもつ言語芸術としての性質を顧慮してロシア・フォルマリズムの以降の記号学の動向にも気を配る必要があると、由良は言ったという。
 四方田の『クリティック』は、今の私には見ることができない。あるいは『濃縮四方田』にあるかも知れないが、それも手が届かない。由良君美が、『クリティック』の何にいらだったのか、四方田は判らないとする。未だに「わけのわからない絵葉書」だったと言っている。そして、「わからない」としながら、アルコールによるトラブルメイカーとしての由良や、「脆い」由良が語られている。この本の構成は、少し賤しくはないか。
 ゼミの最初に由良が話したという、幅広い射程のなかで文学における普遍的なものを抽出するということ、このことが、『クリティック』のなかでは、抽出などされず、ブローカーの商品展示の表示になっていたのではないか。というのは、四方田が「彼(由良)の口からは相変わらずバフチンやバーク、ウイリアムズといったひと世代前の名前しか出ず、それは彼が文芸理論の最前線にもやは関心を喪失しているかのような印象をわたしに与えた。初来日したデリダバベルの塔の崩壊以降の人間の言語的混乱について、ベンヤミンに言及しつつ講演したことがあった。日仏会館でそれを聴講したわたしが、翌日いささか興奮した調子で由良君美にそれを話すと、彼は不愉快そうに、そんなことはとうの昔にスタイナーがいっていることではないかと一喝した。」(p.147)のは、四方田が「最前線」などと最新商品を紹介するブローカー風の語りをしていることを窺わせるからである。
 普遍的なものの「抽出」を説く由良君美が、北畠親房神皇正統記』に拘泥する理由を四方田は考えないのか。四方田は、由良家が南朝系の家門であるから、『神皇正統記』に関心をもつと思ったのだろうか、現天皇家北朝系であることは明らかであるなら、戦前の楠木正成顕彰もそうであるが、由良が、現実とずれる南朝統論の『神皇正統記』に拘泥するのは皮肉なことなのである。『古事記』『日本書紀』といった古代のものではなく、南北朝期の『神皇正統記』に、抽出の端をみるということなのであろう。
 尤も、現実からは、『神皇正統記』も「ぜんぶデタラメ」なのだが。

第57回/由良君美「海外文学事情」(『國文學―解釈と教材の研究』33-3 '63-3學燈社

 四方田は、『國文學』1988年3月号(四方田著では「2」月号)の、由良君美の文に触れている(p.172以下)。プリンストン大学に行っていた四方田が由良に出した手紙が、「ニューヨーク大学に行っている若い友人」からの手紙として匿名で引用され、由良による「罵倒に近い注釈」がなされていたとする。
 四方田が由良に手紙を出したのは、四方田が「しばらくニューヨークの空気を吸い、現地の比較文学研究者と話しているうちに、彼らが日本を巨大なブラックホールのようにみている印象をもつようになった。日本という社会は明治以前から、それこそあらゆるものを翻訳吸収することに長けてきた。だがその日本からのアウトプットはというと、審美的な対象を別とすればほとんど海外に知られていない。岡倉天心鈴木大拙といった往古の巨人は別として、いったい今日の日本の現代思想家たちが何を考えているのか、それを紹介提示するメディアが皆無なのは残念なことである。こう考えるにいたっ」て、由良を思い出したそうである。
 由良の引用をみると、微妙に言葉は違うが、注釈そのものは、誤解とも、不適切とも思われない。由良は、「本当に欧米の新しいものは何もかも訳しているだろうか、さらにはそれを〈消化〉(上掲四方田著では〈吸収〉となっている)しているのだろうか?〈消費〉しているというのだったら筆者はある程度肯定するが。」と書いて話を進めている。本当に〈消化〉しているのなら(その場合、ブラックホールという表現も不適切である)、かならず何らかの〈応答〉がある、といったようなものである。
 そういえば、四方田は、本郷では宗教学へ進んだ筈である。宗教といえば、私などは、体系化された宗教を想定するが、四方田などのいう宗教は、オカルト系のもの、呪術系のものである。つまり、日本で宗教といえば、自己の欲望の権化を表象化したものを想定することが多い、所謂、現世利益の神々で、欧米ではむしろ、宗教的なものに対比されうるものである。まさに、日本は、欧米の文化人類学者の調査フィールドの観を呈したもの(呪術の園)になっている。
 四方田は、由良が新渡戸稲造『武士道』新訳の意向をもっていたことを書いている。『武士道』執筆の動因が、日本には宗教がないということの自覚であったことは、新渡戸の序文にある。
 そのようなことは、ともかく、四方田が、『國文學』の文を読んで、「これはひどい誤解だなあ」と思い、「わたし(四方田)にかかるステレオタイプの罵倒を浴びせてよしとしてしまう」由良のことを不愉快に思ったそうだが、必ずしも誤解ではないということを言っておきたいだけだ。問題は、プリンストン大学にいる四方田を「ニューヨーク大学に行っている若い友人」と書いた由良のことを、「この文章を書いた人物は、要するにアメリカを知らないのだ」とアメリカを十把一絡げにする島国の一老人の如く貶め、「ひとたび外部から日本を、他者として距離をもって眺めるという習慣をわが身に託したことがないのだ。」ととんでもなく「誤解」し、自分が窘められたことを理解しなかったことである。由良は、わざわざ「断っておくが、なかなか優秀な人である」と書いている。優秀な人でも間違える、と言ってやっているのである。明らかに四方田の手紙は「ステレオタイプ」だった。
 四方田は、なぜ由良が、わざわざ「ニューヨーク大学」などと書いたのか考えなかったのだろうか、もし、プリンストン大学などと書いたら、匿名の意味が無くなるではないか、書かなくても思う人もいるだろう。敢えて、異なる大学の名前を挙げる方が、匿名性が維持されると考えたとは思わないのだろうか。
 親の心子知らず、師の配慮をバカな弟子は、感づかないばかりか、師を冒涜する材料に使っている頓珍漢な不肖の弟子である。
 由良が四方田に言っておきたいことがあった、というのは、四方田は、自分に対する「謝罪」の類だと思っている気配がある。「何の驕りか」、由良は、四方田を教育し損なったようである。

四方田が変なのは、日本語だけか

 小谷野敦が、四方田の日本語語法の危ういところを、どうして新潮社の編集部がチェックできないのかと気にしている。小谷野は、文集に文を寄せたメンバーについての四方田の思い込みを訂正していたように思う。それらのことは、些細なことではなく、四方田の認識や描かれる由良君美像にも関連することになる。
 『波』の巽との対談でも、四方田は、福沢諭吉が「藩閥政治は親の仇でござる」と言ったとしている。「藩閥ではなく「門閥」だろう。藩閥政治批判は、明治時代の没落士族の鬱憤の表現にすぎないことが多い。しかし、門閥といえば、微妙なものがある。
 四方田は「(前略)また日本における能の極意や武術における秘剣の伝授の場合を考えてみると理解がしやすいが、衆人に説くにはあまりに危険な知や教義は、古来よりしばしば極少数の弟子にのみ教えられたものであった。」(p.202)と言う。由良君美に関する書物にある文として、ふさわしいかどうか、というのは、あまりにひどい「マンガ」的だからである。このような極意や秘剣など、四方田にとって全く無縁だからこそ、訳の分からない憧憬の念をもつのだろう。衆人に説くことが出来るような極意や教義、秘剣のようなものは無い。あるとすれば、オウムの秘術くらいだ。要するにオカルト。いわゆる漫画の読み過ぎ!四方田には如何に頑張ってみても、秘剣など手に入れられない。
 正直、これだけでも、これまでの叙述は台無し、と言われるようなものだ。確かに、講義や論文では、判らなかったこと、何かの個別の指摘で一変することがある。スポーツの指導者が経験することであるが、選手が、一瞬で(或いは一晩で)上達するのを目撃することがある。
 そのようなことを極意や秘剣と連想させることは可能だが、それさえ手に入れれば、危険なほど、無敵の秘太刀というようなものではない。残念ながら。
 何を言っているのかと言えば、師弟関係とは、そんな秘儀をめぐる争いでは、ないだろう、ということである。敢えていえば、相手を「師」と認め、己を弟子たり得ようとすることだろう。師というものは、弟子が師だと承認してこその師であり、師も、期待するから弟子であろう。裏切るというのは、弟子が期待に沿えない場合か、しかし、師弟が、そのような関係をもっている以上、裏切ったとしても、その裏切りを自覚できれば、それは、以前として弟子である。というより裏切りの確認こそが師弟ということでもある。師弟の関係は、そのようないわば人格の相互承認として続く。
 「ぜんぶデタラメ」は、師の叱咤だ、それを、師の競争意識だとか、嫉妬だとか、これでは、弟子として不適格である。もちろん、師は絶対ではない、しかし師が示すところのものついては、相当の根拠がある。そのことに師の師たる所以がある。師を否認した自分を自覚したペテロは嘆き、師を裏切った罪深さを知ったユダは自らを律した。ともに、明らかに弟子である。裏切りの自覚が、自らの行為規範になるのである。
 ことばのあやともとれるが、「親鸞は師の法然を鑽仰してやまなかったが、同時に師をも超えようという野心を抱いていた。山折はそれを、綽空から親鸞へと彼が改名したという事実に見ている。」(p.194)の「師を超え」とか「野心」は、願い下げである。親鸞ほど生きた存在を感じさせる宗教者はいないが、だからといって、あるいは、だからこそ、「野心」など下司の思い入れはやめて欲しい。勉強に熱中したことがある筈なら判ると思う。山折にしても、少し勉強すれば、『歎異抄』に「不気味な厭人癖」や「原理主義的な鋭さ」など見なくてもよいのにと思う。

裸の王様になるなよ 四方田

 四方田は、インタビューした人や、30年ぶりに再会した人から、由良君美の四方田に対する嫉妬を指摘する人たちがいたことに当惑を感じたという。しかし、考え直すと思い当たることがあり、それを四方田は、むしろ肯定的に、つまり「はたして自分は現在に至るまで、由良君美のように真剣に弟子にむかって語りかけたことがあっただろうか。弟子に強い嫉妬と競争心を抱くまでに、自分の全存在をかけた講義を続け、ために自分が傷つき過ちを犯すことを恐れないという決意を抱いていただろうか。」とする。つまり、嫉妬は、真剣の証しというわけで、由良の自分への嫉妬という指摘を受け入れることができたわけである。おそらく、それは間違いだと思う。由良はいらだちをもっていたけれども、嫉妬などはしていない。四方田の売れ方に嫉妬していたのは、四方田の同世代の、マイナーな連中で、それを由良のいらだちに仮託して、あるいは、自分の嫉妬をみてとって、四方田をおだてた、ということだろう。そして、四方田も、スタイナーや山折を経て、由良の競争相手になったというわけである。
 由良君美が、実は英語を得意としなかったなどという「話」を入れながら、由良の英語論文、”The Involuntary Memory as Discovered by Coleridge ”(English Criticism in Japan 1972東京大学出版会)の解説を四方田がしている(p.226以下)。
 「相当に凝った文体である」から始めている四方田の解説は、本書の最後の山場ともとれる。「おそらく由良さんはスタイナーに読ませたい一心で、英仏独の3カ国語に跨る論文を執筆してみたかったのではないか。ウィーン出身の両親のもとにパリに生を享け、イギリスとアメリカで学んだという根っからのコスモポリタンであるスタイナーに、彼は共感と羨望と友情の気持ちを抱いていた。日本語の読めないスタイナーもこの論文を通して、自分の翻訳者がどのような文学的観念の所有者であるかとの見当を付けてくれるだろう。わたしはそう期待しながら、深夜にタイプの浄書を終えた由良君美が、ひとりパイプを吹かしている姿を、微笑ましく想像している。」と、「由良さんは」と書き始める四方田の気分がわかる。それは「私が抱いたこの微笑ましいという感想は、死後15年を経過したとき、由良君美のテクストがわたしにとって、もはや畏怖の感情とともに仰ぎ見るものではなくなったことを告げ知らせてくれる。」というものである。このあと、由良に対する顕彰ともとれる文が続くがそれは良い。四方田は「根っからのコスモポリタンであるスタイナーに、彼は共感と羨望と友情の気持ちを抱いていた」と思っており、それが、この解説の核心になっており、パイプを吹かす由良像になる。
 根っからのコスモポリタンであるスタイナーに、由良が共感と羨望と友情の気持ちを抱いていたのだろうか。コスモポリタンでさえない、デラシネの四方田には、理解できなかったのだろうか。由良君美が『神皇正統記』にこだわり、新渡戸稲造『武士道』の新訳に意欲を燃やしていたことは、四方田が書いていることではないか。
 1969年9月に筑摩書房より『国家の思想』(戦後日本思想体系5)が出版され、その解説を「言語にとって云々』とやらの長文の垂れながしに、一握の書生を糾合されし牛飯屋主人某は、近代言語学に一切通ぜず、フォルクス・エティモロギーに浮き身やつし、某々の憫笑を買いしと言う」(と由良に揶揄された)吉本隆明が、「天皇および天皇制について」という題で書いている。
 川端康成ノーベル賞受賞演説と三島由紀夫の東大全共闘との討論での発言を引用したあと「わが国の現代作家が、一方は日本人の美的感性の伝統をどのようなものとかんがえているか、もういっぽうは〈天皇(制)〉についてどうかんがえているか、がよくあらわれている。もちろん、ここにみられる美や〈天皇(制)〉観が現代作家のすべてを代表するものではない。むろん数からすれば、こういう主題自体を拒否するとともに、現代の欧米の作家たちの方法についてはそれほど拒否的でないという作家のほうが多数を占めているといっていい。ただこれらの多数は、いずれにせよ文学の究極的な支柱の探索をはじめから放棄しているという意味では、川端・三島のような安定感からは見離されているといってよい。/そしてここで問題なのは、川端康成が、日本人の美観としてさしだしている「雪月花の時、最も友を思ふ」という〈自然〉を魔とみなすかんがえかたや、三島由紀夫が、司祭(集団)としての〈天皇(制)〉に究極的な文化の価値を収斂させているかんがえ方がはたしてかれらのいうように〈日本人的〉なものであるかどうかということである。」と述べる。
 由良君美は、万巻の書を渉猟して、何に向かい合っていたのか。残念ながら、四方田に対してではない。由良が必須にあげていた『神皇正統記』もいってみれば虚構ではある。四方田は、岡倉天心鈴木大拙といった往古の巨人は別にして、日本からの発信がないという意味のことを手紙にして由良に出した。由良は、新渡戸の『武士道』の新訳を考えていたと四方田が書いている。新渡戸が目論んだ西欧騎士に対応する誇り高い武士は、日本では鎌倉時代の武士団に限定して想定せざるを得ない。というのは、江戸時代には、大名ですら、改易、転封を連発される「鉢植え」のような存在であり、往年の主従契約に基づく矜持の一端も持ち得ないような状態であったからである。新渡戸の『武士道』の典拠は多くが江戸時代のものである。騎士道になぞって、欧米の人がBushido: The Soul of Japan を読み、JAPANを認識するだろうが、それは虚構である。
 四方田君、安心して欲しい、師は、決して嫉妬塗れの老残の身を晒していたのではない。厳しい、見通しの立たない困難の前のいらだちのなかに居たのだと思う。
 問題は、四方田犬彦が、そのような師の弟子たり得るか、ということである。いま、凡百の悪意のおだてに載せられて、師を矮小な嫉妬と学閥の圧力の虚妄の中に葬り去ろうとしているのではないかと案じる。
しかし、朝日新聞(07.3.6)で、鶴見俊輔が四方田に『先生とわたし』に感激したと言っているのには、悪意はないだろう。尤も、誤解するのはよくあることだが、鶴見が鴎外の『渋江抽斎』に比肩させるのをみると、見たくないものをみせられてしまったという思いである。鶴見の惚けぶりが衝撃的だったので、話がずれたが、要するに悪意のない煽ても同様に危ないということである。
 四方田のこれからの精進に期待するしかない。