アカデミック ブローカー事情2 小松秀樹著『医療崩壊 ―立ち去り型サボタージュとは何か』(朝日新聞社2006)に見られるもの

 「医療崩壊」という深刻な状況が他人事ではなくっていた2008年のはじめに、ある病院長に、「法律的には、医者の医療行為による患者の死も、暴力団の殺傷行為も結果違法ということで同じだそうですね。」と言われた。「結果責任」ではない「結果違法」などという、法律家があまり使わない言葉を使って、「法律的には……」と言われたことで、何を話題の中心にしてよいのか判らなかった。
 院長は小松秀樹著『医療崩壊 ―立ち去り型サボタージュとは何か』(朝日新聞社2006)を貸してくれた。虎の門病院泌尿器科部長である著者の、現代医療が医者の意欲によってしか支えられないという訴えはよく判り、その医者の意欲を切り崩す動きが医療崩壊の大きな理由だという著者の訴えもよく分かった。
 しかし、この本の中に、先の院長から聞いた、「医療行為中の患者の死と暴力団の殺傷行為の結果は同じ」という話が載っていた。
 千葉県に医事紛争研究会という有志の研究会があって、その主催者の一人である千葉大学法経学部法学科教授の話である。その法学科教授が、その会の第一回目の報告者で、「この表題の趣旨を誤解を承知で要約すれば医師による医療行為と暴力団の殺傷行為は法的には同じことだということです。」(85頁)と述べたそうである。医療行為は神聖な行為で尊敬が払われる行為だが、これについては法は中立(法の無関心)で「診療行為から生じた結果(死亡等)に対して大きな関心を持つ」と言ったそうである。著者は、この教授の話を勝手に纏めたわけではなく、配付された講演要旨に基づいておられるから、この教授の言説であるということは間違いないだろう。
 この教授は「世間の常識・医者の非常識」という題で話しており、一般的な法律家が正しいと思っていることが話されたと、著者は、思っておられるようである。
 はっきり言って、この千葉大法経学部法学科教授の言っていることは、法学部に入学して夏休みを迎える大学一年生程度の常識にも到達し得ない。法学概論でも、刑法でも、医者や警察官の仕事については、正当業務行為であるとして、違法性が阻却されるというのは、かなり早い時期に学習することである。尊い生命が消えるということでは、いずれも同じであるが、それらの行為が、医者の医療行為と暴力団の暴力であれば、前者は正当な業務での行為であるし、後者は犯罪である。つまり「法的」な評価において、全く異なるということである。警察官の拳銃は、殺傷能力がある。飾りと思うものはいないだろう。何が、結果違法だ、ちょっととんでもない教授が、この大学の法学科にはいるらしい。医者は想像するだに、厳しい労働環境にある。診察カードの整理だけでも相当の仕事量である。手術等の治療行為にも緊張は想像を越える。その医者に、この教授は、あなた方は、運が悪ければ、結果で、殺人者ですよ、と話したらしい。つまり、結論として、結果次第ですから、できたら、手術などの治療はしないのが一番の方法ですよ、と教えたことになる。
 この本は朝日新聞社から出版されているが、朝日新聞社の編集部で、この部分のチェックは、できなかったのだろうか。有能な医者の力作が、この底なしの非常識で台無しになっている。
 このような非常識は、そう広まるものではないと思われるのではあるが、しかし現に、この著書では引用され、そしてこの「結果違法説」論者は、現職の法学科教授として、教壇に依然として立ち続けているようである。
 このような「法学的常識」を欠落した男は、社会的にも非常識であるにちがいない。世間の常識と法学上の常識がずれては困る。ただ、常識という場合、偏見や因習を常識とされては困る。コモンセンスという言い方がある。共通感覚と訳すべきか、誰が考えても、合理的と思うようなこと、これが常識だろう。法律的には違うんだ、などとは、実は法律を知らないものの言い方である。理が通らない法は、もう法ではないのある。
 アカデミック・ブローカーの題の下で、このようなことを書いたのは、なぜ、このような法学系の研究者教育者としては欠格と断ぜざると得ない人物が、しかも、いくつかの大学を経て、つまり、種々の「足跡」を遺している筈なのに、現在の職場に採用されているのだろうか。本人がブローカーとして、自分を売り込んだわけでもあるだろう。しかし、この程度のブローカーの中身を見抜けないとは、いかにも情け無い。専門の研究、教育を担える組織として大丈夫かと思う。
 このブローカー氏は、大きく地域社会に、「医事紛争研究会」なるものをアピールして、それこそ「お客様社会」として、学校同様に、「クレーマー」におびえる病院経営者に恐怖を募らせる、非常識な演説をして回っている男である。この研究会の第1回講演は、この男の非常識のほんの一端に過ぎないだろう。また、この男自体も、尊大なまま、利権あさりに動き回る連中のほんの片割れにすぎないかも知れない。
 大学にして、この自浄能力である。しかし、せめて大学くらいは、少しばかりの自浄能力があってもよいのではないかと思われる。というより、せめて大学くらいは自浄能力をもたないと、大学とか学部などとは、とうてい名乗れないのではないのか。
 このようなことを言うと、必ず、悟ったようなこという人物がいて、そんなことは当たり前で、何を今更、と言ってくる。この納得があぶない。
 初めに、本書を読んだとき、「医療崩壊」という崩壊状況は、種々の分野にもあることの一つの現れだなという印象をもったのものである。刑事裁判での「報復」の復活や、裁判員裁判などは、「司法崩壊」の名に値するし、その前に「金融崩壊」も経験した。アカデミズムでの有象無象のブローカーの旺盛な行動は、アカデミズムの「崩壊」で、「危うい社会」の深刻度は増すばかりである。
 そんななか、とりたてて「崩壊」が問題になるのは、その崩壊は何にもまして深刻だからである。そのなかでも、大学などは、自浄能力を持っていることが少しは期待されるのではないかと思うのである。しかも、それが、「書かれたもの」まで、野放しにされている、これは危ないのではないかと思ったのである。
 思想的な危険文書とか、政治主張の危険度ではなくて、知的水準が危険基準を超えているのではないかと言っているのである。