小路田泰直編集『網野史学の越え方―新しい歴史像を求めて―』(ゆまに書房2003-4) ―アカデミック・ブローカー事情(4)

一 COEの「第三者」評価に基く競争原理
 さきに、小路田編著『比較歴史社会学へのいざない』が、COEがらみだということなので、日本学術振興会の「21世紀COEプログラム」というHPに掲げられた、その趣旨を見た。そこには「第三者評価に基く競争原理により……」などというおよそ、意味不明の文があった。第三者というのは、具体的には何か。そこには、専門外の人が入るということか。計算競争や、算盤競争やクイズ番組ではないだろう。「第三者」がたやすく評価できる程度の競争か。
 大袈裟な「競争」ということでは、「軍拡競争」もあるし、核開発競争もある。そんなものでも、評価担当第三者など、聞いたことはない。専門研究を評価する第三者というのは何か、いわゆる「素人」か?、何を馬鹿なことを、と思いかけて、しかし、小路田らのしていることそもそもが、「素人だまし」みたいじゃないか。『比較歴史社会学へのいざない』(勁草書房2009)への参加者は、首謀者の小路田は、一応、歴史学を僭称しているから別として、もし、ウェーバーを今後も語っていくのなら、そんな破廉恥な「競争」に乗っかったことを恥としなければいけない。
 COEとは別に、小路田は、同様のことを続々としてきたことを自慢げに書いている。奈良女子大学F棟5階会議室での議論の結果は、『比較歴史社会学へのいざない』より前に、『日本古代王権の成立』(青木書店2002)、『王統譜』(青木書店2005)が成ったとある。

二 日本古代王権の成立
 日本古代「王権」と聞けば、それは政治的なもの、支配関係を問題にしていると、当然思う。その財政的基盤も考えないといけない。その政治関係、財政の問題については、戦後多くの研究蓄積がある。その関係と財政の問題は密接である。名代・子代の問題である。
 ところが、全く顧慮していない、視野に入らないというより、知らないのである。素人の歴史マニアでも知っていることである。もっと言えば、高校生用の教科書にも載っていることである。歴史学的に素人以下の人間が、「学術的なこと」をしているのである。
 高校日本史の教科書には、岸俊男の研究を参考にした畿内大族の勢力図を掲載していることが多い。この大族の関係、支配関係の結果が、古代日本の支配構造で王権の問題もでてくるのである。
 水林は「いま、小路田さんがおっしゃった政治的統一体の誕生の問題を、私は、日本については、律令国家の形成の問題として考えてきました。」(『日本古代王権の成立』p.251)と述べる。ここで、律令国家を、隋唐の律令国家とほぼ同様に考えているのだろうが、(違うとは全く言っていない。)隋唐の律令制が、皇帝の官僚のよりどころの規範であったのに対して、日本の律令制は、豪族連合政府、豪族連合支配を、律令あるいは、「令」によって整備したものと言える。太政官という政治的指導部が、各貴族あるいは豪族代表で構成されていることは、竹内理三「八世紀における大伴的と藤原的―大土地所有の進展をめぐつて」(『史淵』52・53、1952-07)が述べている。
 従って、日本では、支配の律令的整備、つまり古代日本の法典編纂には、ほぼ1世紀を要しており、移植はもちろん継受という言葉にもなじまない作業であった。この、支配関係の成立を具体的に描かない限り、王権の問題など述べようがないのである。しかし、そのための様々に貴重な先行研究は、小路田らとは無関係にあるのである。観念的に、国家の枠を振り回しても、小路田自らがいうように虚しいのである。観念的にではなく、具体的に研究すれば近代史とアナロジーする必要も全くないのである。具体的な現実的な研究をネグレクトして、勝手な方便を述べる。これこそ「ブローカー」である所以である。
 水林なぞ、古代の天皇制の本質を見極めることができないので、「アマルガム」とごまかしている。具体的な叙述には、そこに、「人間」として登場すれば、当然多様に現れる、しかし、支配の本質が「アマルガム」とは、要するに思考停止ということである。

三 網野史学の越え方
 『網野史学の越え方』、これもまた、小路田泰直の編著だが、『季報唯物論研究』№113の特集タイトルがこれに倣ったものか、と気になる。そうでないにしても、良くない。
 西村さとみが討論の最初に「網野史学をどう捉えて、それをどのように克服していくのかという観点から……」と述べる。「網野史学」とは、なんだ、というところを議論する前に、克服することも考えているらしい。というより、克服すること、あるいは、「越える」ことが、さきにあるらしい。はっきりしないが、とりあえず越えよう、とは何だ。
 司会のアドバイスもあって、出席者が「無縁論」から、話しを始めている。確かに、網野さんが、一挙にスターになったのは、平凡社のPRマガジン『月刊百科』連載のエッセーの単行本『無縁・公界・楽』の驚異的なヒットによる。しかし、網野善彦さんの歴史家としての評価を固めたのは、東寺領太良庄を描いた『中世荘園の様相』(塙書房、1966年)だろう。中世を描いた古典的作品として誰もがあげる伊賀国黒田庄を描いた石母田正『中世的世界の形成』に匹敵すると言ってよいかも知れない。ここには網野さんによって、具体的に提起されている問題も、まだ嵌め込まれたままになっている。網野さんのお仕事で、これほど重要なものに、「網野史学の越え方」には、ほとんど言及がない。これでは、越えるも越えないもないのじゃないか。網野さんは、非農業民「も」描こうとしたということは、当然にわかっていることだと思うのだけど。
 また、歴史家網野善彦といえば、『古文書返却の旅――戦後史学史の一齣』(中公新書、1999年)も忘れられない。網野さんのお人柄が本から滲み出てきて、胸があつくなる。
 「古文書返却の旅」は、網野さんによってこそなされたことだ。網野史学を象徴さえしているようである。
 『網野史学の越え方』は、網野さん生前のものであるが、網野さんが亡くなって間もなく中沢新一赤坂憲雄網野善彦を継ぐ。』(講談社、2004、6)が出ている。赤坂は「あとがき」で、「もとより、網野善彦を継ぐ、といった物言いが、まったく不遜なものであることは承知している。」と書く。そしてそこに、精神の形見分けとも取れる網野さんへの畏敬の念がみられる。

四 ブローカー小路田の面目躍如
 小路田は、『網野史学の越え方』の「刊行にあたって」で次のように書いている。

 ……ではなぜ「網野史学」を討論の素材に選んだのか。理由は簡単である。それが、マルクス主義歴史学後のこの20年間、この国の歴史学に最も大きな影響を及ぼした歴史学説の一つだったからである。それをとりあげることが、今の時点では、何がいったいグランド・セオリーなのかといったことを考えるのに、最もふさわしい出発点を我々に与えてくれるものと予想させられるからである(2-3頁)。


 網野善彦が、「マルクス主義の発展段階説」とやらに疑問をもったのは、史料からくみとれる事実とことなるからである。しかし、その「発展段階説」なるものは、マルクス主義なのか。マルクス主義かも知れないが、マルクスではない。さらに小路田は、全体討論で次のように述べている。


『資本制生産に先行する諸形態』の中でしたか、マルクスは、近代ヨーロッパとアジアの違いを、乱暴にも古代における本源的共同体のあり方の違いに還元して論じています。西洋近代の資本主義的発展は原始共同体における古典古代的形態に、近代アジアのまさに『アジア的停滞」は原始共同体におけるアジア的形態に還元してとらえています。この発想だと、歴史の起点における近代(原近代)の問題は、確かにマルクスの内部で処理できることになります。何せ古典古代的形態はほとんど資本主義的形態なのですから(121頁)。


 「乱暴」なのは、「本源的共同体のあり方の違い」などと空虚な言辞を弄する者である。「本源的蓄積」の意味もわからず、「本源的」と使ってみたのだろう。だから、次のようなことを述べる。


ヨーロッパ近代(資本主義)というものを説明するのには古典古代的な古代というものを想定しなければ説明できないことに気づいたから『諸形態』のようなものを書いていたのではないでしょうか。そのことがあるからマルクスは『資本論』において展開した本源的(原始的)蓄積論をもう一歩進めて、古代社会論のようなことにも関心をもったのではないでしょうか。仮説の域を出ませんが私ならそう思います(121-2頁)。


 『資本論』には、資本の本源的蓄積とは、農民の賃労働者への直接的転化であると書いてある。それが、単なる形態変換ではなく、いかなる意味をもつのかは、『資本論』に書いてある。『資本論』を少しでも読めば、こんなことは書くことはできない筈である。
 解説を加えるまでもなく、『網野史学の越え方』の編者が、ほぼデマといっても過言でない言辞を弄して、催しものを組織して書物を公刊している。まさにブローカーの真骨頂ともいうべき言辞である。共著者として名を連ねている人から何の異議も出ていないようなのが不思議である。