佐高信!しっかりせえ!! 二・二六事件と北一輝

一 佐高信は、北一輝を革命思想家だったと思っているのか。
 2011年も、まもなく2月26日になる。佐高信西部邁とラジオ番組をもっていて、そこで、北一輝について喋っているようである。その放送も再放送も聞けなかったので、内容は知らない。おそらく、久野収が、生前に何回か言っていた「顕教密教」の例え話のことであろう。佐高信『面々授受 久野収先生と私』(岩波現代文庫)10「顕教密教」に書いていることとそう違わないと思う。「顕教密教」のことは、久野が、1956年に鶴見俊輔との共著として出版された『現代日本の思想−その五つの渦−』(岩波新書)で述べたことである。
 ここで、久野が述べた「北」像は、種々な事情から、膨らんだ北一輝の虚像の一つにすぎないが、佐高ともあろう方が、ほとんどの懐疑心もみせずに継承されているのは、残念なことである。確かに、北一輝は、若くして大作『国体論及び純正社会主義』を書き上げた。その文章表現も相まって、期待されることもあったであろう。しかし、所詮は、特別の教養があるわけでもない政論家、政治ゴロに過ぎなかった、と言った方がよい。
 人々が、北一輝に思い入れを語るのは、先述の若干25歳で刊行した著書から、その美文調の書き出しから始まる『日本改造法案大綱』と題した書物にもよる。
 しかし、その改造法案の内容は、憲法を停止して、一律に私有財産を制限するというものである。ロシア革命ではなく、大化の改新を想起するものである。憲法を停止して、基本的に私有財産を否定し、臣民を、総体的に奴隷と化する事業、また、その後の奴隷統治を誰が行うのか。軍隊あるいは軍事官僚か、およそ、空虚なことがらである。
 その空虚な書物の著者が、今もって、畏敬の対象となるのは、2・26事件という、日本近代陸軍で生じた、これ以上ない反乱事件―これは、個人的なテロ行為とは異質のものである。―の首謀者として処刑されたことによる。そして、『日本改造法案大綱』もまた、その反乱事件のよってたつものだったという虚偽が拡大されることになった。

二 流雛としての北一輝
 2・26事件は、陸軍の青年将校らが、1400人あまりの部隊を出動させ、「尊皇斬奸」を掲げ、内大臣、大蔵大臣、教育総監らを殺害、侍従長に重傷を負わせ、陸軍省参謀本部・国会・首相官邸など一帯を制圧した事件である。白昼、現職の首相が射殺された5・15事件も衝撃的であるが、軍隊が組織的に動員され、政治中枢を制圧したということでは、断然異質である。最終的に反乱軍として鎮圧され、特設軍法会議で、首謀者の将校は処刑され、北一輝西田税も首謀者として死刑に処せられた。
 北一輝西田税が、なぜ処刑されたのか、その理由は、考えてみれば不明である。首謀者である将校が、北一輝『日本改造法案』を読んだことがあったり、西田が、将校と北との仲介であったとしても、それが、どうして、反乱の首謀者として処刑されることになるのか。
 NHKのドキュメンタリー番組で、事件首謀者の拠点になった宿舎の電話盗聴録音が放送された。「キタだ、」とせわしく喋る男の声と、ちょっと、戸惑う将校(安藤)の声があった。「マル、マル、カネはいらんかね。」と続く。最初聞いたとき、北一輝が、こんなかたちで、事件に絡みたがっているのかと思った。と同時に、非常に軽い印象を、多くの人がうけたようだ。しかし、電話をうけた安藤は、最初から、北とは信じていないようだった。そして、中田誠一『盗聴 二・二六事件』(文藝春秋)によれば、この電話のとき、北一輝は、すでに東京憲兵隊に逮捕されていたというのである。
 中田は、二・二六事件の裁判官もつとめた元参謀本部参謀石井秋穂の言葉を紹介している。
「……そこで、寺内陸軍大臣が裁判官の班長をみんな集めて景気づけをやった。”北、西田を死刑にせよ”とはっきり言ったわけではないが、北、西田が悪い、青年将校はあいつらにくっついていっただけだ、ということを間接的な表現で言うわけですよ。」
 中田は、「二・二六事件の際、青年将校らに激励の電話を入れた北一輝西田税を極刑に処す、それは最初から陸軍中央の方針であった。『かかる不逞の輩に、純真な将校が踊らされて理非を誤ったのが今次叛乱の実情なり』陸軍は北の『日本改造法案大綱』を短絡的に結びつけ、その著者を事件の黒幕として断罪した。」と述べる。
 『新訂 二・二六事件 判決と証拠』(伊藤隆・北博昭共編、朝日新聞社1995)でみる判決理由には、その「激励電話」のことはない。北と西田を介した将校たちの交渉が記載され、そこには、しばしば「霊告」の内容が記載されている。それは、他の供述や押収された『霊告日記』によりうらうちされるものであろう。「霊告」というのは、自らを無責任とするための方便かも知れない。もし文字通りとるなら、それは、「オカルト」にすぎない。
 中田は、陸軍首脳が、「短絡的に結びつけ」たとするが、臨戦装備の軍隊が、見張り警官程度の防備しかない首相官邸などを機関銃などで襲撃し、政府要人や警備の警察官らを殺し、政府中枢を制圧したのは、天皇が激怒するまでもなく、大不祥事である。粛軍どころではない。既に、陸軍は実質解体的あるといえる。松本清張は「下克上」と表現するが、陸軍の存在自体が深刻な状態なのである。中田は、北・西田に同情的に「短絡的に結び」つけられたとするが、陸軍は、そうでもしないと、体面が保たれないほど深刻だったのである。
 かと言って、北・西田が被害者であったかというと、そうは言えない。北とか西田のようなフィクサー的存在は、確かに陸軍が、罪をつけて流す人形(ヒトガタ)、雛として利用したものであるが、西田はまだしも、北はあきらかに、そういう情況で生活の資をえていたことは間違いない。問題は、北らの存在によって、事件が意味するところのものが誤魔化されてしまった、ということである。
 皮肉なことに、このことによって北一輝に対する虚像は確実なものになったと言える。そして、崩壊日本陸軍の問題は、それほど問題にされることもなく終わってしまった。

三 顕教密教
 以下は、佐高による久野の「顕教密教」説の紹介である。
 久野は、伊藤博文は、国民には、権威主義的な絶対君主としての天皇を信奉させ、一方で国政を運用する秘訣としての立憲君主説を採用した。つまり、たてまえとして、絶対君主を信奉させたのが顕教で、支配者層の申し合わせは、つまり密教としては、立憲君主制だったとする。
 「しかし、膨張する軍部だけは、密教のなかで顕教墨守しつづけ、文部省をその支配下において、顕教による密教征伐を企てる。国体明徴運動がそれである。その逆に、密教によって顕教を征伐しようとしたのが北一輝である。」(文庫版133-4頁) 
 まず、顕教密教という言葉が、あたかも「たてまえ」と「ほんね」のように使用されている。顕教密教というのは、教義学と儀礼との関係のようなものである。その意味では、相互に対応すべきものであって、本来対抗的なものではないのである。密教というと、それ自体に、不思議な力、あるいは「パワー」がありそうで、よいアイデアだと思ったかも知れないが、そのような、言葉の呪術的なものに依存すること自体、ナンセンスである。 言葉自体も変だと思わないのだろうか、万世一系天皇……など、誠に嘘くさい、呪いくさい、これは顕教という言葉には、なじまないだろう。あえて言えば、密教だろうが、これは、いわば、教義と対応してあるものとすれば、「密教」と言ってしまうのも如何なものかと思われる。
 明治憲法は次のような条文をもっている。
  第37条 凡テ法律ハ帝国議会ノ協賛ヲ経ルヲ要ス
 第38条 両議院ハ政府ノ提出スル法律案ヲ議決シ及各々法律案ヲ提出スルコトヲ得
 明治憲法下の立法に関しては、議会は、天皇に「協賛」するに過ぎなかった、というふうに説明されることが多い。この協賛は、原案では「承認」とされていたものである。尊皇論者の反応が激しいので、協賛と表現を変えたらしい。要するに、国会の議決を得ることがないかぎり、日本では法は成立しえないのである。
 もし、顕教を、久野のように「たてまえ」とか「おもてむき」とか、通俗的に使用したなら、これこそ顕教だろう。そして、天皇の古代をなぞった儀式こそが、密教ということになる。
 顕教密教などと思いつきを言うのは、勝手だが、思いつきは、すぐに検証されなければならない。
 佐高が敬愛する久野収の言うことであるなら、そして、佐高が、久野の弟子であることを、自認するなら、「先生、それは、少し変じゃないですか」と言わなければならない。天皇機関説は、(決して密教などではなく)当時通説であり、当時の内閣も天皇機関説であったのである。 

四 政治ゴロ北一輝の処刑
 北一輝西田税は、二・二六事件の首謀者として、処刑された。いかなる意味でも首謀者ではなかった。幇助したわけでもなかった。判決は不当である。西田が何かを言いかけたのを北はとめた、という。その態度に裁判官の吉田はうたれたそうである。かなりの人物であったようである(しかし、当時の政治的経済的危機的状況を材料に、自らの贅沢な生活の支援を政財界からうけていた話は、流雛とされた遠因とも思われる。)。
 「密教をもって顕教を征伐しようとした」とは、およそ見当違いである。「日本改造法案」などという田中角栄なみのタイトル(本当は、田中が新潟県の後輩で、「田中著」のライターも、それを意識しているのだろうが)の仰々しさと序文の美文に誤魔化されさえしなければ、その内容は、虚しく寂しいものである。
 問題は、北一輝の処刑で、日本の軍と政治の危機的状況が隠蔽されたことである。同時代人のゾルゲが、日本の予算の六割が軍事になっている異常な状態を報告している。二・二六事件決起将校が憂えた、日本の農民の悲惨を極める情況は、軍備負担がもたらしたものでもある。
 士官学校へ進む者は、おそらく農村でも、最下層ではないだろう。西田税も、陸軍幼年学校へ進む前に、米子中学へ進学している。兵士でも、軍隊でいままでにない食事にありつけたような時代である。まして、将校に対する待遇は、隔絶するものがある。その待遇は、農村の犠牲のもとにもたらされたものであるという皮肉な情況を決起将校は、あるいは感じていたのだろうか。
(2011/2/25)