「偽史」  ―すが(絓)秀実『1968年』(ちくま新書)

偽史「1968年」
 絓秀実『1968年』には、1968年を主題として、革命思想や転向や文学の話などが書かれているのだが、うまく受け取れない。受け取り手の責任かとも考えてみるが、そうでもない。分かり難い理由の一つは、すが秀実の「1968年」が、もってまわった「虚偽」だからである。
 すが秀実は、ようするに、みんな「偽史」みたいなことを言っている。「偽史」であることが、本質だ、みたいな言い方もしている。これは、吉本隆明にも少しは責任があるが、吉本隆明著の誤読でもある。いろんな知識があって、いろいろひねくりまわしている話が大きくなって、それが、どうせ「偽史」ということになると、とんだ、香具師の口上というか、香具師の口上の面白くないものになってしまう。
 正直のところ、山口健二というユニークな人物が紹介されたり、中野重治の「村の家」について述べた箇所は、読ませる。皮肉なことに、それは、やや怪しげな山口健二という人物の「偽」ならぬ「実」を追っていたり、中野重治についての、吉本隆明の「思い入れ」を絓秀実が「証拠」で覆そうとして試みているからである。その叙述の評価は別にしてでの話である。「実に迫る」方法が面白いのである。
 すが秀実自身が「偽史」などといえば、それは、自分の杜撰な叙述の開き直りとも、逃げ口上ともとれるが、そうではなく、そもそも、書かれたものは、そのようなものだという稚い傲慢さがある。
 1968年は、全共闘の年、あるいは新宿争乱事件があった年でもある。しかし、東大全共闘のクライマックスは、やはり安田攻防戦だとしたら、それは、もう1969年である。尤も、安田攻防戦は、1968年の帰結だとしてもよい。しかし、東大闘争自体は、'60年ブント全学連の脈絡を抜きにしては語れない医学連の運動を理解しないといけない。
 学生の運動として、1968年に、全く新しい相貌をみせたのは、日大全共闘である。しかし、絓の[1968年」には、その象徴的存在である日大全共闘はほとんど現れない。これは、確かに「偽史」だ。尤も、日大全共闘は、絓の「1968年」など、気に掛けもしないだろう。その『1968年』には、文化人左翼の観念の弄びがあるだけだからである。
 四方田犬彦『ハイスクール1968』は、物語の頂点は1969年だが、入学したのが、1968年のことになる。その意味では、新潟の高校を出て上京した絓が、予備校を経て、大学へ入学した年が1968年であるのか。そのような、社会に目覚めてきた絓本人のことを中心に書けば少しは分かるのだが、革命的起点のように夢想するように書くから、なんのことかわからない。すが著の焦点は1970年7月7日の華僑青年共闘(華青闘)の告発なのだが、この1970年の告発が、「1968年」という書物の軸として語ることは、どのように可能になるのか。大いに無理がある。無理があるから「偽史」ということで帳尻を合わしているつもりなのだろうか。
 すが(絓)は、なにか「偽史」ということに妄想をもっているのだろうか。「偽史」でこそ、本質が語られると言ったような、そんな妄想は棄ててほしい。
 すが(絓)は吉本隆明に「沈め」られた、花田清輝について書いたものが、最初の単著だそうであるが、吉本隆明の「幻想」の使用をひどくしたような言い方になっている。幻想というより、妄想になっている。吉本の幻想はまじめなもので、幻想という形態として、それが、それ自体として存在しうるかのようなものとして書いてしまっている。自己展開する文学や、国家や天皇制のように。
 『ドイツ・イデオロギー』で、「幻想……」という場合、「現実……」と対になっている。文字どうり「幻想」、つまり無いものなのである。それが、すが(絓)になると、「幻想」が「妄想」になり、それは妄想なのだけれど、本質的ということになってしまい、突然リアリティを喪失するのである。
 正直言って、高校生「四方田犬彦」が、1969年にあった現実のバリケード空間にもった非日常的な感覚は、「お泊まり会」に対する期待に酷似した印象をもつが、そのバリケードに泊まることが、夢のように消えてしまった、そんな四方田犬彦の『1968』の方が、はるかにリアリティがあるのは、隠しようがない。
 「偽」といえば、どれほど前のことになるのか、大岡昇平が、歴史小説ということで、江藤淳塩野七生に対する厳しい意見を新聞に書いていた覚えがある。特に、自作の「偽」文書を挿入した塩野自身の小説について、その文書をを実在すると考えたブックレビューなどあったのを面白がる塩野に対して、それは二重にナンセンスだとしていた。一つは、そのような偽文書を挿入しないとできない「歴史小説」は何か、ということである。歴史小説というものが全く分かっていないということである。さらに、それを、自ら種明かしして喜ぶ、そのさもしい感覚を叱っていたように記憶している。

絓秀実が、花田清輝を好きな訳
 すが秀実は、1960年6月4日に発表された竹内好の「民主か独裁か」にひっかけて、「プロレタリア独裁」と応えるべきだった、と書いている(p.48)。レーニンの四月テーゼを連想させるかのように、自分勝手に得心しているようである。
 この男は、プロレタリア独裁の困難な意味も理解しないばかりではない、現実の闘争に身をはったことなど、一度たりともない、と考えざるを得ない。この絓のような男が、現実の闘争に紛れて来たなら、〈邪魔な〉存在というか、闘争の阻害物として即座に排除されるべき存在だろう。方針やスローガンが何を根拠になされるか、何も分かってはいない。唐突に空疎な観念を提示すれば、闘争は一挙に解体するだろう。その意味で、絓は、かつて、吉本隆明に罵倒された文化左翼花田清輝と似たところがあるかも知れないが、花田清輝は、これほどひどくはない。
 絓が観念的な文化サヨクだというのは、60年安保ブントなどの運動がナショナリズムだとか、そんなことを言って、何かを言った気になっているところにも現れる。60年安保ブントが、例えばトロツキーなどの外国人の著書をよりも宇野弘蔵とか対馬忠行とかいった日本人の書いたものばかりを参考にしているのもナショナリズムの現れだとか、バカなことを平気で書いている。姫岡怜治の「第三次綱領草案」は宇野理論だからと言っているようであるが、これは、吉本隆明が、どうして、みんな議論が、毛沢東だとか、ローザルクセンブルグとかに依拠するのか、と書いていたことに対する反転であるのか。
 すが(絓)に、文化サヨク風の印象を受けるのは、1968年と言いながら、すがの本には1968年の厳しい空気が、全く流れていないからである。
 1968年を生きた連中なら、「日本の六八年の代表的なイデオローグ津村喬」(p.68)には、違和感を覚えざるを得ないだろう。実感として、『われらの内なる差別』の著者は、1970年に彗星の如く現れた感がある。内容も、確かに毛派のような書き方だが、むしろ、全共闘の内省的な側面を、継承発展という趣旨の印象を受け、竹内好吉本隆明の対談での吉本の発言から、吉本の知識人ぶりを批判しているが、むしろ、論調は吉本風でさえあり、藤本進治の「根拠との闘争」を援用するものの、藤本進治の組織論運動論についての理解には、不確かなものがある。
 日本の六八年の代表的なイデオローグというのなら、どこかしら、津村と風貌の似ていないとも言えない田村正敏であろう。日大全共闘にとって、秋田明大と田村正敏という存在は欠かせない。連日のように、アジテーションを行う秋田明大の映像はテレビで流れたし、『現代の目』などに見る田村正敏の流麗な文は、日大全共闘がもたらした「新しいもの」を表現していた。しかし、それは、後の津村と似ているようで、全く違っていた。「新しいもの」というのは、日大の学生の中から出てきたものが闘争として運動として出てきたものを理論化しているということである。
 
「現代は六八年に規定された時代」? 
 偽史メーカーとしてなら、うまくはまったフレーズだと思っているのかも知れないが、現実問題として、ある年に時代が規制されるなどということは考えられない。偽史として、なんだか説明した気になるしかない。敢えて言うなら、六八年は、六七年の結果という側面は大きいと言える。それも言うなら六七年を準備した六六年を、種々考えなければならない。その問題を、すが(絓)は、西部某のゴシップなどで繋いでいる。
 日大の場合、既に六七年の春に、経済学部で、新入生歓迎の羽仁五郎講演会が右翼応援団などによって潰され実行委員は、リンチされ重傷を受け入院した。右翼学生に壁に頭を打ち付けられた学生は、脳波の乱れも検出されたという。ところが、大学当局によって処分されたのは加害者ではなく、重傷をうけた被害者だったのである。この事件は、大手新聞の全国版社会面で報道された。
 '67年の特筆すべき出来事としては、10月8日の佐藤首相のベトナムサイゴン政府)訪問阻止を掲げた羽田闘争である。三派全学連が、プラカードにみせかけて角材を持ち出して機動隊に攻撃したのである。中核派京大生の山崎君が死亡した。学生がヘルメットを被って、実際に機動隊に対抗、攻撃的に出たので、読売は当然、朝日新聞も暴徒学生として見出しをつけた。さらに11月12日の佐藤首相の訪米に際しては、意気上がる学生は、確かにひとたび、機動隊を倒したという。鈴ヶ森ランプで、羽田の方向を見間違ったらしい。
 とにかく日韓闘争のあと、沈滞化していた学生運動が一気に、攻勢に転嫁したことは否めない。これは、騒擾罪を適用して起訴された吹田事件にみられた、弾薬等の輸送列車を、数分止めるだけでも、同胞を助けることになる、といわれて行われた1952年の闘争('67当時も並行していた米タン阻止闘争や工場への闘争は似ている)とも異なる、自国権力と戦うことによる国際的な連帯が叫ばれていた。このような自国との戦いの中でしか国際主義はないと思った。たちまち、学生運動や、反戦青年委員会の活動は拡大して行った。これは、学生の突出した戦いが一気に階級的流動を生み出したという関西ブントによる'60年安保の総括とも言われる『政治過程論』で理解すると、羽田の過激な戦いがよく理解された(ただ、この納得が、暫くして大きな壁に逢着することになる。)。
 当然に、反革命も拡大する。当然に、兆しは、日大の例にも見られたことではあるが、一気に拡大の傾向も出てくる。1968年の関大では、表向きには体育会や応援団が、学友会の予算決定を梃子に、左翼系サークル、自治会を排除する方向に出た。その司令部は、日学同(日本学生同盟)である。関大の1968年は、日学同系学生が中心となった右翼支配の年であった。
 1968年から千里山の関大は、左翼あるいは、それに同調すると見られる学生には、白昼、目撃した者の目を顰めるリンチがかけられるといった状況が、69年の6月まで続いた。

1968年 国際反戦会議 
 1968年の夏には、ブントの松本礼二が実行委員長となって国際反戦会議が開催された。これは、次の年には、国際反帝会議として開催するとし、しばらくは、ツィンメルバルド左派会議をなぞるものとして語られることになる。
 アメリカからSNICCのジョージ・ウイルソン、フランス全学連のジャネット・ァベールらが出席し、西ドイツSDSの代表も来るとか言われた。プラハのことが話題になっていたので、チェコスロバキアの代表も来ていたのかもしれない。思い出すのは、京都府学連の望月上史の空気を破るようなアピール、ブントの田原芳の迫力、関西地区反戦連絡会議の永井武夫の魅了するような演説、それに如何にも人のよさそうなよっちゃんこと松本礼二のあいさつだった。社青同解放派社会党解放派)、社学同ML派、第4インターなども参加し、アピールしていた。革マル派もいたかも知れない。
 その会場で、ジャネット・ァベールは、五月革命と言われている闘争で、自分たちは日本の学生のマネをして、混紡と投石で戦った、するとフランスの警察も日本の警察のマネをして、楯とネットを作ってきた、と笑わせた。しかし、自分たちは、共産党に裏切りにあった。共産党の裏切りによって敗北した、という意味のことを通訳が訳すと、演壇近くの赤ヘルメットの学生が「ダメ!ダメ!」と騒ぎはじめた。通訳がマイクを差し出した。「どうして、どうしてね、共産党の裏切りを許してしまったのか、という主体的な総括にならないとダメなんだよ!」と学生が叫んだ。ジャネット・アベールは、「そのときは、共産党が、まちがっているということを言えなかった。今は言える」といった、そのときは運動主体としての思想的政治的未熟だったことを言っていた。
 鶴島雪嶺など第4インター系の人たちが、通訳などに尽力していたが、未だ拙いところが多く、「国際交流」からどれほど越えられたのかとも思うが、世界のニューレフトとして歩み初めではあったのかと思う。
 次の年'69年には、国際反帝会議として考えられ、一部は開催された会議もあったようであるが、ブントの解体同然の混乱状況から、それどころでは無くなっていた。

マイノリティーによる対抗運動?
 1968年の革命的闘争が、1970年になって、マイノリティーによる対抗運動の登場となったと、すが(絓)は書いている(p.155)。マイノリティと聞いて、まず思うのは、独自の文化・習慣・言語などを持ったグループが、不当にその存在を危うくされる危機から発した運動を想起する。自らの存在を訴えるものとして、相互の尊厳を認め合うことを考える。
 日本では、アイヌの人々の問題をまず考え、更に、北アメリカ大陸におけるネイティブの住人、オーロラリアのアボリジニーニュージーランドマオリの人々の活動を聞くことがある。中国の多くの少数民族も同様である。1930年10月に台湾中部の山岳地帯霧社事件について、タイヤル族の存立についての絶望的な蜂起であったことについて思いをよせた記述は少ない。
 しかし、このような少数民族と、そうではない社会的弱者に対しても、同じようにマイノリティーとして混用することがある。マジョリティーに対する意味でマイノリティーと言っているのなら、それは相対的なものになる。そういう相対的なものと、自らの存在の危機を訴える少数民族としてのマイノリティーと同様に考えることができるのだろうか。
 ときには、社会的弱者として、差別に苦しむ場合、少数民族のような、可視的なものでないことが多く、それに対する戦いも困難な場合がある。
 何十年か前、被差別部落のことをマイノリティと英訳して、大きな問題となったことがある。それは、マイノリティと訳した人は、被差別部落の人は、異民族であるが故に差別されているのだと思っていたようである。移り住んで来たからといって、差別の理由にはならない。被差別部落の人は、移り住んで来た人ではないのであるけれども、深刻な差別を受けているのである。
 マイノリティ(少数民族)と、被差別部落を翻訳した人は、差別の実態を知らないで、被差別部落を語っていると非難された。
 軽薄な思い付きを言う人は、それは、他にない特別な能力が差別の原因なのだろう、と差異を強調する。差異を強調することで、差別に理由があると納得しようとする。もともと、なにも差異はないのである。ここに、異なる文化を負うことをアイデンティティとして主張する少数民族マイノリティと、被差別部落などにかけられた差別の違いがある。
 また、少数民族、マイノリティーの問題は、植民地支配を覆そうとする民族運動と、同一視しえないのは、言うまでもないだろう。そして、アジアに侵略を繰り返した「日本人民」としてどうするのか、と問われれば、それは「日本人民として」反省するというより、侵略する体制を支えた人民からの変革を、戦いとることができなかったことの意味を考えることしかないだろう。だから、津村が「新左翼ナショナリズム」とした批判したというが、ナショナル的結合を克服した、結合を求めて闘っているときに、ナショナル的感覚をもって、お前のナショナリティを見直せ、と言われれば、「ナショナルに」総懺悔的に、反省してしまうことしかなくなるだろう。

〈文化〉の革命
 この、津村の「新左翼ナショナリズム」という、侵略的加害者としての日本人論は、全共闘運動時、学生の共犯的加害者としての自己否定論の延長にあるように思われた。しかし、69年の春先に立命館では、全共闘派が、わだつみの像を倒して、戦中世代の反感と反省を呼び起こした。しかし、それよりもずっと早く、『聞けわだつみの声』に、チャンギー刑務所で戦犯として刑死された学徒兵木村久夫氏によって、田辺元『哲学概論』の余白に書き込まれた遺書がある。そこには、木村氏の加害者としてのアジア人民への贖罪が語られている。ナショナルに組み込まれたことが問題なのである。具体的に、ナショナルに組まれないことが課題なのではないか。
 たしか、神津陽が『「ブンカ」の傾向と対策』で、津村喬の文化人ぶりを批判していたように思うが、中国社会においては、なぜ文化革命だったのだろうか。1917年、胡適が『新青年』で、白話文学を提起した。翌年から、魯迅の本格的な創作活動がはじまる。この「『文』の変化」が、中国社会で如何なる意味をもつのか、津村は何と言っているだろうか。毛沢東の文は、この白話文学運動の発展のひとつの帰結として捉えないと理解されないだろう。
 文革に際して、最初に立ち上がった、精華大附属高等中学の壁新聞で、最初に紅衛兵と署名したという張承志は、そのほんのとっかかりで、文化革命の趣旨が転倒してしまったことを述べている(『紅衛兵の時代』岩波新書)。
 私たちがよく聞いた、文革に際して、親が、知識人だったからと糾弾する姿は、まさに血統主義で、それこそが、最初に蜂起した生徒が否定しようとしたことであったのである。私たちは、転倒した文革を見ていたのである。
 すが(絓)が、津村を引き合いに出すのなら、その文革への錯誤した認識を確認した上で語らなければいけない。

「存在しない」ものをめぐる差別  
 すが(絓)は「しかし、身分制が解体されて『部落民』が『新平民』と総称された後は、それは具体的には存在しないのである。いや、被差別部落というカテゴリーは、法的にはもちろんのこと、民俗学的にも歴史的にも規定できない。部落の『起源』は一定ではないし、『賤業』差別であるというふうにも特定はできない。一般的な農村が被差別部落ということもある。確かに部落差別という現象は具体的・日常的に『存在する』のだが、それは『存在しない』ものをめぐる差別という問題なのだ。」(p.188)と述べる。
 すが(絓)は「歴史的にも規定できない」などと言っているが、実際の被差別部落を一見すれば、自分の無知、愚かさが分かるであろう。このことについては、これ以上言わないが、「『存在しない』ものをめぐる差別という問題だ」と考える、転倒についてだけは言っておかなくてはならない。
 すが(絓)は、「確かに部落差別という現象は具体的・日常的に『存在する』」と書いているが、本当に、存在することが分かっているのだろうか。「現象」などと、気楽に書くが、それが、どれほど陰影を持ち、深刻なことであると思うのか、「現象」などと、それこそが、「差別」というものである。すが(絓)は、それは「現象」だというが、どんな「現象」を見たのか。それが、実体なのである。何か定義することが、本質で、具体的な現実は、現象だと思っているのではないか。
 ここに、文化人すが(絓)の偽史『1968年』における認識の致命的転倒がみられる。