「政治主導」がスローガンであることのとは奇妙さ、気味悪さ

 民主党政権が、「政治主導」で霞ヶ関改革とか言っている。霞ヶ関は、今まで散々、政治家の無理難題を受け、あるときは訂正もしてきた。今まで、政治主導ではなかったみたいな言い方が、おかしい。
 自民党政権の、国鉄民営化、小泉の郵政民営化、安部の教育基本法の低劣な改悪まで、露骨な政治主導どころか、政治以前の政治だろう。政治の横暴でないものがあったら言ってほしいと思う。
  先だって、ある集会で、立命館大学平和ミュージアムの名誉館長安斎育郎氏が、「国家にだまされないために」という講演をしていたが、「政治主導!」などと唱えることで、政治主導がよいことかのように言うのは、「だまし」だろう。「だまされないために」などという前に、現在どれほど、騙し、騙されているか、安斎先生ご自身考えて欲しかった。
 新聞などジャーナリズム、研究・教育機関である「はず」の大学のスタッフくらいは、きちんと言ってくれないといけないと思うのだが、法律学の基本的素養の欠如から、大阪弁護士会の懲戒処分をうけている「タレント」橋下大阪府知事如きものにまで、媚びてばかりの新聞やテレビは、自ら、その役割を放棄しているように見える。
 「TBSは死にました」と亡くなった筑紫哲哉が言ったのは、随分と前のことになる。死んだTBSで、その後、撤退もできず、死骸の上で、旗を振り続けたともとれる筑紫本人も、死んでしまった。
 今、政治家というデマゴギーの「広報」を担っているのは、何年か前に死んだ筈の幽霊なのか。
 「政治主導」というが、つい最近まで、冠に「政治」あるいは「政治的」とくると、それはネガティブな表現だった筈だ。
 それが、「政治」あるいは「政治的」が、ポジティブに使われるのが、とくに極端になったのは、サッチャーレーガンに20年遅れて登場した小泉からだ。
 だから、政治に左右されないように「司法権の独立」と言っているのを、「司法権の独立」を倒せ、と政治主導を叫んだのが、東大名誉教授三谷太一郎で、それに依存して、小泉に裁判員裁判を答申したのが、佐藤幸治京大名誉教授である。
 三谷太一郎にしろ、佐藤幸治にしろ、いわば平成の(まともな政治家は退いているのに、対ロシア主戦論を煽った)「東京帝大七博士」だ。竹中平蔵ともども、歴史的に裁かれねばならない。