西部邁のノブレス・オブリージュ(高い身分に伴う義務)

 

 西部邁という男が、いつの間にか、出版業界やテレビに出ていた。専門は知らない。東大教養部のスタッフであるとか、元全学連、あるいはブントの幹部だとかいうことも本人のプロフィールに付けてあったかと思うが、当時の多くの学生が、全学連であったりブントであったりしているのだから、そういうのを看板にしてるのかと思って、関心のもちようとてなかった。知人に借りて『60年安保―センチメンタル・ジャーニー』を、気まぐれに読んだが、借りたのがどういう経緯だったかも思い出せない。
 貸してくれた動機が、今も判らない。ふつう、貸すのには、それなりの理由があると思うのである。60年安保といえば、全学連主流派、日本共産党の対米独立運動ではなく、今や自ら帝国主義的展開を行う日本の権力との対峙を明確にしたブントの話であり、なかでも、その姫岡怜治を中心とした政治的思想的な討論と活動の具体的な展開はどうだったのかという関心はなくもない。
 しかし、そのような安保ブント結成の核ともいうべき話は、拍子抜けするほどない。したがって、この本の内容については、ほとんど印象がない。かろうじて思い出すことが2点ある。1つは、唐牛健太郎を、全学連執行委員長として推したのは、自分(西部)の功績だと自慢していることである。こういうことくらいしか自慢することがないのかと思った。いまから考えると、そのことが私に不快な印象としてあるのは、西部が、自分たちは、このようなことを仕切っていた特権グループだったと言っているようだったからなのだろう。ついでに、田中清玄からの援助を受けた東原のことについて言及していたことも思い出した。その時は、それぞれ事情もあるだろう、くらいに思ったが、その後の東原の行状もあわせて考えると、その「友だち」関係が、その後に独特のネットワークになっていることが見え隠れする。
 もう1つは、東大グループを中心とした「同窓会」で、誰かが、当時の公安を呼ぼうと言い出し、それを肯定的に書いていることである。この本は、今や、手狭になった公立図書館には、とても置けないと、とっくに廃棄処分されたようで、その箇所を確かめられないが、西部などという男、大学のスタッフなどというが、全く動脈硬化をきたしていると思ったことは覚えている。貸してくれた知り合いにも、その話が一番気になったところというか、それくらいしか印象になかったのを伝えたことを覚えている。
 今から考えると、硬直した特権意識が出たもので、60年安保闘争も、自分たちと公安警察の闘争だったくらいに思っているのだろう。
 前に、すが(絓)秀実の本の一冊(『1968』)を、否定的に書いたが、確か、すが(絓)は、西部と清水丈夫の学生服姿の写真を掲げて、かつて「学生運動」がエリートの運動だった、と書いていた。確かにその面はあったか、と思った。これは、すが(絓)に意識させられたことだ。たしかに、60年安保のころ、まだ、少なかった大学生(エリート)と、デモの抑制に駆り出される若い警察官との心理的なあやのことを書いていた新聞のコラムも見た記憶がある。

 西部は保守派だと自称して、国家主義を、ソフトに表現はしている。つまり、国家の枠に依存しなければ、論が立たないのである。人権とか組合などたよりにならない、国を危うくするものだ。頼りになるのは、国家と軍隊である。ちょっと、これは同義反復で、西部たちには、国家と軍隊についての勉強をして欲しいのだが。今、この人たちに、そのことを教えることができないという、貧相な「日本」の精神状況もある。
 それは兎も角として、保守派西部は、さかんにノブレス・オブリージュnobless oblige(高い身分に伴う義務)を説く。高い身分、つまり、官僚、政治家、学者などの責任を言っているのであろう。西部自身が、いかなる義務を果たしたのかは判らない。ノーブレスというのは、貴族である。つまり、貴族と領民との間に形成された双務の一方である。つまり、ノブレスに対応する人々がいるのである。それを欠落している西部の言うノブレスは、領民への奉仕者としてではない。西部にとってノブレスは、単なる特権グループである。だから、西部が言っているのは、ノブレスだけで、オブリージュなどないのである。だから、公安と昔話でもしようぜ、などと言うのだ。
 西部が東大教養部を退職するきっかけは、西部が、宗教学の中沢を採用する人事をすすめたところが否定されたからだという。みんなが思うことだろうが、どうして宗教学の人事に西部の推薦が意味をもつのか判らない。中沢が西部の知り合いだったということ以上の話は聞かない。中沢がベストセラー『チベットモーツアルト』などの読み物の著者で人気者だったから、仲間内の推薦でもよかったのか。人事に反対する人のコメントの少しは新聞でも少しは出ていた。学問的チェックに耐えないということであった。それに対する明確な反論はなかった、というより、我々のところには届かない。傲慢な特権グループ(西部たち)が起こした、いわばスキャンダルだろう。

 西部はノブレス・オブリージュといっているが、ノブレスがもつオブリージュというのは、領民に対する義務であることが認識できていないのではないのか。義務の話を主張する人が、エリートの特権のことを言っているようである。いや、そうなんだよ、とも聞こえそうである。ちょっと微妙だが、確かにエリートの特権と言ってもよい。しかし、現代社会で、結果としてエリートは、その合理的な手続のうえで確認され、合法的な権限をもつということだけであって、特権といえば語弊がある。情緒的仲間内で行われる特権利権とは異なる。
 西部の60年安保内部での、思い上がったエリートグループ内での活動と言い、東大人事と言い、傲慢な特権振り回しに過ぎない。だから、ささやかなチェック一つで、傲慢な人事が挫折したのだろう。

 特権グループと屈折したルンペンの問題は、意外と根強くある。68-9年の東大闘争で、民青が他大学の学生に、試験を受けてから来い、と言ったとか、あるいは、全共闘の学生までが、機動隊に試験をうけてから来いと言って、非難されたことがあった。
 69年の始めと思うが、『序章』創刊号で、京大出身者だと思われる、私学のスタッフが、「井上清などと仲良くしている最近の学生は、甘い。61年の大管法闘争では、京都大学の学生は、全学ストライキを決議した。ところが、それを先頭になって阻止しようとやってきたのが、井上清だった。革命など、恨みつらみでこそ、できるものだ、なんだなまっちょろい」みたいなトーンだった。そうか、恨みつらみが、未だ足らないのか、と思ったが、そんな京都大学の元学生は、どんな運動をしていたのだろうか。特権身分のエリート学生としての身分を謳歌していなかったか。当時の京都で、京大生が、どんな恨みつらみをもてたのだろうか。
 『序章』が発行されていたころの、立命館大学の窓ガラスは、鉄砲の弾が抜けたような穴が開いていた。人間の手による投石では、あのような見事な穴など開く筈がない。そん凄まじい現場に、立命館の学生や関西大学の学生はいるということが、元京大生のエリートは判らず、「恨みつらみ」などと言っていたのだ。ひょっとして、この人は、自らの特権身分に対するうしろめたさを持っていたのだろうか。それで、ついつい、貧民の「恨みつらみ」に幻想をもってしまったのだろうか。
 その年の夏、京大経済学部助手で社会思想史研究者の滝田修氏が、関西大学で、「釜ヶ崎の住人や、その他様々なルンペンを糾合して、機動隊を粉砕して……」などとアジテーションをしていた。『共産党宣言』ではルンペンでは、あかんと書いてあるけど、違うニュアンスで言う言い方もあるのかと思った。滝田さんはルンペンに革命的情熱があると誤解していたようだ。滝田さんは、本当に虐げられた人こそが、そして本当に社会の底辺の人こそが、そしてこれらの人の心情こそが革命的なのだと素朴に信じていたようだ。それは、本当の厳しい人生を送っている人とかそんな社会を知らない者の、素朴な貧者信仰か、知識人の後ろめたさか、判らないが、社会思想研究者としては、今から思うと、やヽお粗末ではあるが、滝田さんの純な心情には、口を挟めなかった。
 1980年代の終わりごろ、作家の金石範は、在日2世3世の青年たち多数の前で、「差別される者ほど、腐敗するんだ」と叫んでいた。憤然とする青年に、金は「普通は、差別する者が悪くて、差別される者は無垢だと言うだろう。そんな神話は誰が信じるか!差別のなかで、多く屈服し、転向し、裏切っていった、その事実を、私はこの目で見てきたんだ。差別されると腐敗するんだ。言っておくぞ、だから差別はいけないんだ。だから、私は、解同が部落差別糾弾闘争という方式を作り出したことは評価に値すると考えるのだ。」とたたみかけた。
 パリ・コミューンがルンペンによるものなどと言ったら、弾劾されるだろう。ロシア革命の当初、生活や生命を問題にしたが、ルンペンの暴動ではない。
 1971年8月21日、自衛隊の埼玉県にある朝霞駐屯地で、21歳の自衛官が刺殺される事件があって、赤衛軍と書いたヘルメットが現場に遺され、その実行犯だと名乗る男とのインタビュー記事が週刊プレイボーイ誌に掲載された。その男は、自分たちの背後には、誰でも知っている大物が控えていると言っていた。これは、危ないな、とすぐにルンペンに弱い、大物(つまりマスコミによく出ている)の滝田さんの身を案じた。思いすぎであることを願った。しかし、ルンペン好きの滝田さんと、マスコミなどに出てくる有名人にあこがれるルンペンとは、相性だった。全くの冤罪で10年余の逃亡生活を強いられることになった。その間京大助手の身分も失ってしまった。

 戦後日本で、過激な政治運動社会運動は学生運動が中心だった。確かに恵まれた人たちの特権のようでもあった。 全共闘は、全学連とは違ったと言っても、その世代の人間が、非日常的な祝祭空間を醸した世界に生きた瞬間を語っているのを聞いて、四方田犬彦でさえ、羨ましがっているように見える。四方田は、高校の一教室の机椅子が寄せられているのだけ見て、「非日常的な祝祭空間」を感じていたのだ。かの団塊世代は、いまや冴えないサラリーマンまでが、一つの町全体を覆うかのような祝祭空間を演出していたと聞いては、嫌悪する以外にその羨望を中和する方法を知らなかったのかも知れない。
 そして、それも人によっては、「特権」、しかも学生、あるいは全共闘の特権とみえるのかも知れない。留置場で相部屋になった「ミナミの組」の幹部が、まだ赤ん坊の自分の息子も、全学連全共闘に入れるんだ、と言っていた。
 また、ルサンチマンを感じさせる実業学校卒で大学進学せず就職し、あげくルンペンに転落した男が、右翼に接近したり、全共闘系女子学生に接近したりして己の存在をアピールしていたこともある。
 特権とルンペンのルサンチマンの忌まわしい話だ。