「佐藤優の正義」の行方

 佐藤優が、田中森一元検事との対談『正義の正体』(集英社インターナショナル、2008)で、次のように(81頁)言っていると聞いた。

佐藤 そもそも裁判員制度の趣旨というのは、日本国憲法の規定に抵触するんです。現行憲法で謳われている国民の義務というのは、納税、教育、そして労働の3つだけですよね。これは裏を返せば、それ以外に国家は国民に義務を課してはいけないということでもある。 ところが裁判員制度が導入されれば、正当な事由がないかぎり、誰もが裁判員にならなければならないというわけですから、国家が国民に課す純然たる義務ですよ。裁判は受ける「権利」があるだけであって、関与する「義務」は絶対にない。もし、そういう義務を課したければ憲法を変えるのはスジなのに、そういう議論がちっとも起きていない。こういう「違憲状態」がまかり通るようにことがあれば、次はかならず徴兵制の議論が出てくると思います。「国防は国民の義務なんだから召集されたら兵隊にならなければいけない」というのは、まったく同じ論理構成ですからね。
 あとこの裁判員で制度というのは、言ってみればイスラム世界における石打刑と同じだだと思うんです。誰かを死刑にするとき、一人の手で殺すのはイヤだからみんなで石を投げようというわけです。

田中 そうすれば、誰の責任か分からないものね。
 佐藤がイスラム世界における石打刑と言っているが、イスラム世界への偏見が増幅しないようにと思う。石打刑は、イスラム世界でも、当初から、克服すべきリンチとしてあったように、オリエント世界に限らずに見られたリンチのひとつだったわけで、そのようなリンチに批判的な点は、佐藤も田中も知識人である。
 佐藤が、即座に、憲法違反と反応しているのは、元公務員としては当然の反応である。この時点で、日本の法学部、とくに憲法学は、目も当てられない惨状を露呈したと言える。
 さらに、この裁判員制度成立時におきた問題は、「裁判員になること」を、民主主義社会における国民の「権利」のように謳いあげたことである。「司法への市民参加」という言い方である。佐藤優のように、根拠のない「義務」であることを明確にすれば、もう少しは違ったかもしれないのに、「司法への参加」などと言われたので、(そこが情け無いところだが)異議を出しそびれているところもある。
 従って、佐藤が言及する徴兵制も、以前言ったように、民主国家における「国防への参加」と変更して、ジャブがくり出されているようである。

 ところで、この対談は、週刊誌の記事になることを想定した異色の元検事と異色の外交官のものであるだけに面白い。読者に情報を提供し、啓蒙効果も期待したりする、いわゆる読者サービスすることを心がけたような本でもある。
 ただ、その具体的な情報ではなく、議論の内容について、検討を要する点は少なくない。 そのうちのほんの一・二を、挙げておきたい。
 佐藤優は8頁で、刑事事件の被告人である佐藤や田中の本が売れたということについて、

 我々自身は自分たちのことで必死だっただけで、司法を変えようなどという意識なんかまったくないんですけどね。ただ、「正義は一つじゃない」ということを多くの日本人が知ってくれるのは悪いことではないけれど、その一方で怖いなと思う部分もあるんですよ。

 佐藤は、「正義は一つじゃない」ということを日本人が知るのは悪いことではない、というが、いろいろあっては、それは正義にならないのではないか、ある条件のもとでは、あることが正しい、とは言うことは可能だろう。しかし、一般に、正義は一つではないとは、チェコのフロマートカという神学者について研究していた神学の徒であった者の言とも思えない。佐藤は、「怖いな」と思うことを、次のように言っている。

 鈴木宗男さんという代議士は、もともとは4〜5万しか票を獲らない人だったんですが、逮捕の後に行われた選挙で43万もの票を獲得し、当選してしまいました。これって、少なくとも北海道という土地に関していえば、国家・検察の正義と有権者の正義とが乖離しちゃっていることの動かぬ証拠だと思うんです。しかし、日本の国家体制全体のことを考えると、それってやっぱり怖いし、危険だと思うんですよ。
 鈴木宗男が、得票数を、かつての10倍近くに増やしたのは、国会などのおける石原の発言に対する鈴木の批判に対する共感や、鈴木に対する袋だたきに対する反発や同情などによる、いわば人気票と考えるべきだろう。確かに、国会へ登場するための正当性は、投票数で担保されたわけだが、それは正義とは言えないだろう。さきに佐藤や田中が批判した裁判員制度がナンセンスである理由の一つが、多数決で決定されるということである。到底、正義は、多数決で決定されるものではないからである。
 佐藤優は、「正義」についての基本的な考察を欠落している。基本的に、正義というものについての、考えはないのであろう。だから、佐藤の視角は、「日本の国家全体のこと」ということになる、日本の国家全体のことから考えるのが、佐藤の基本的な立場ということになっているようである。
 それで、得心がいくのは、佐藤が外交官試験のために憲法を勉強した際、佐藤功著『日本国憲法概説』(学陽書房)を読み込んだそうである。しかし、人権のところだけは、佐藤功著では、よく理解できなかったので、佐藤幸治の本を読んで補強したと言っている(236頁)。佐藤幸治憲法(第三版)』(青林書院『現代法律学講座5』平成7)の393頁では次のように述べる。

 既に垣間見たように、人権観念は、かつて法秩序と調和しえないと考えられて忌避されたこともあった。が、人権観念は元来法秩序と調和しうることは自明のものとされ、実際具体的な権利・自由との結合において生成したものであることに留意する必要がある。ただ、人権観念は、人間存在のあり方の複雑さに対応して、理念的な性格のものから具体的なものに至るまで、多様なものを包摂しており、法秩序(憲法典)に対して批判的視点をもっていることは否定できない。
 このような叙述で、かつて、神学の徒であった佐藤が補強できたとは、不思議である。人権思想の飛躍は、アメリカの独立宣言やフランス革命時の人権宣言にみられる。人権も法であるが、人権を保障するための規範も法である。憲法典でもある。佐藤幸治の叙述は、法秩序(憲法典)と人権は対峙するものとしてある。「調和しうる」のではない、人権はいわば根本(基本)規範なのである。
 佐藤幸治憲法(第三版)』は、「従来、わが国にあっては、人権をもって前国家的権利を説くのが一般的であるが、それによれば、厳密には自由権を中心とする自然権的性格の権利のみが人権ということになり、また実際そのように説かれることがある。」ことを述べ、それに対して、公への賠償請求権や生存権は、国家によってのみ与えられるのだから、前国家的権利ではないから人権ではないのかとする(394頁)。ところで、国家への賠償請求権は、国家によって与えられたからあるのだろうか。公務員の不法行為による損害を賠償を請求する権利は、国家によって与えられたものだろうか。
 佐藤幸治憲法(第三版)』の人権論の特色は、日本国憲法基本的人権というものが、前国家的権利ではない、と主張するところにあるようである。
 佐藤優が、佐藤幸治著によって、「人権とのところ」を「補強」したというのは、人権に対して「国家を先行させる」考えのところであろうか、と思い得心したということである。