大阪帝国大学と聞いて思うこと(1) ― 原爆とレーダー

 2010年4月21日毎日新聞朝刊に中根良平さん88歳の訃報があった。肩書きは仁科記念財団常務理事、理化学研究所元副理事長、物理化学専攻とあり、大阪府出身、1943年、大阪帝国大(現大阪大)化学科卒、理化学研究所に入り、仁科芳雄博士の研究室で原爆研究に参加した、とあった。
 大阪帝国大学の理学部と言えば、1933年に開設されている。その一期生として入学された方が卒業の1936年に菊地正士指導のサイクロトロン建設が始まり、それに従事されたという話を聞いたことがある。しかし、1943年には、菊地は海軍技術研究所へ出向になり、一期生のその人も、マイクロ波のレーダー製作のために東京の海軍技術研究室分室へ出向されたそうである。
 改めて、理科系の研究も、戦争のために総動員されていた様子が垣間見えてくるわけである。戦後、これらの学問・研究がどのような思いで出発したのか。
 60年代の学生運動に、反産学共同路線というのがあった。1968年は、それがより内在化した側面があった。東大闘争の発端は医学連の活動だが、その根拠に自分たちの身分以前に、存在の意味を訊ねていた筈だ。
 すが(絓)秀実『1968年』をみて覚えた違和感の理由の一つは、それ、すなわち、それぞれの学生が自らの存在自体に問いを発していたことが、すが(絓)著では、希薄ないしは欠落していると感じられたからである。勉強や研究と無縁でない願ってもないアルバイトとして重宝していた、遺跡発掘の仕事を、史学科の学生が大挙して拒否した「事件」もあった。発掘は遅滞した。後の吉野ヶ里遺跡の発見も、幹線道路建設のための調査発掘がきっかけである。
 つまり、遺跡を潰すために、調査発掘する、という作業には、耐えられないというのである。1969年の出来事だったと思う。
 最初から、根無しの知識人だったすが(絓) 秀実や津村喬では、そんなことは分からないのだろう。