伊藤真の危ない憲法理解!!裁判についての理解も怪しい!!

 法学館憲法研究所(JICL)のサイトで、2009年6月8日の記事は”『長沼事件 平賀書簡』から司法改革を語る”というもので、所長の伊藤真刑事訴訟法が専門だとする大出良知東京経済大学教授の対談記事であった。
 伊藤真が次のように言っている。

 司法改革の大きな課題の一つである、裁判員制度も今年5月にスタートしました。私は司法への国民の参加は積極的に評価されることだと考えますが、問題も多く残しており、特に刑事裁判や裁判員の役割・あり方を正確に国民に伝える努力が必要だと思っています。刑事裁判の本来の役割は、被告人は有罪であるとの検察官の主張に疑いはないのかどうかをチェックする、ということなのです。私はものわかりのいい裁判員ではなく、口やかまし裁判員になってもらいたいと思います。

伊藤真といえば、司法試験合格者を大量に出していた伊藤塾伊藤真だと思うのだが、「司法への国民の参加」とは何のことを言っているのか、憲法には「裁判をうける権利」こそは謳われても「司法への国民の参加」などという胡散臭い言い方はない。既に、新約聖書ヨハネによる福音書において否定されていることを知るべきだ。だからこそ、刑事訴訟法の厳格な手続があるということを、大出ともども認識してもらいたい。
 伊藤は、「裁判員の役割・あり方を国民に伝える努力が必要だ」というが、裁判員の役割について、その提案者の佐藤幸治や支援者である三谷太一郎が何を言っているのか知らないのだろうか。
 そもそも、伊藤・大出対談は、大出が福島元判事のインタービューを中心にした本を出版したことによるのである。福島元判事の序文は、憲法第76条第1項「司法権」第3項「裁判官の独立」から始まっている。
 佐藤幸治司法制度審査会会長が、裁判員制度の拠り所とした三谷太一郎の著書は「司法権の独立」を排斥する趣旨によって書かれたものである。この逆立ちに、伊藤・大出は気付かないのだろうか。
 大出良知の語るところを見る。

 今日の司法改革は新自由主義政策の一環としてすすめられたという側面があることは否定できませんが、政治家が司法改革とすすめるにあたって一番参考にした意見は日弁連が中心になって長年蓄積してきた改革案であったことは間違いないと思います。

 「新自由主義政策の一環」であることが否定できないのだったら、それだけで、廃案にすべきであろう。どうやら、大出は、新自由主義ということが、分かっていないようである。もし、佐藤幸治らの推し進めてきたものが、日弁連のものであったなら、これこそ、絶望という他はない。日弁連新自由主義に汚染されていると言っていることになるぞ。伊藤や大出は、平野竜一が日本の刑事裁判はかなり絶望である、と言ったと言い、その理由として有罪率の高さを挙げている。裁判で無罪になるようなものを起訴する方が問題だろう。絶望の状況は、むしろ今こそ、本格的に到来したというべきだろう。
 学生時代から、裁判制度ゼミナールにいたという大出は、「報復から刑罰へ」とあった歴史が、「報復へ」と逆行している状況を何とみるのだろうか。今や刑事裁判が、専ら被害者の報復感情を如何に充足させるか、ということに関心がむけられている観がある。司法の参加させる一般人の「感情」を尊重しようと傾向を、刑事訴訟法を専門とする大出は、「絶望的」にならないのだろうか。 
  1990年のアメリカのベストセラーPhilip Friedman『合理的な疑い』(延原泰子訳Hayakawa Novels 1992,原題"Reasonable Doubt")に、検事が判事に、次のように述べる箇所がある。

  「……遺族に向けられる同情の念がいかに強いのかを、わが国の裁判所は認識しております。ですから、その同情の念の誤用を防ぐために、用心深く手段を講じている。―その徹底ぶりは、検察官が最終弁論の際に、傍聴席で泣いている、亡くなった被害者の両親を一度なりとも指差してはならない、と裁判所は定めているほどであります。……」(上、105頁)

 リーガル・サスペンスとはいえ、アメリカの娯楽小説である。かかる箇所を見て、最近の日本の、「感情」回帰の、世界にも類をみない、「制度崩壊」の当事者、同調者は、何かを思うのだろうか。伊藤塾長や、刑事訴訟の専門家の大出教授も、何も思わないのだろうか。